じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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セイタカアワダチソウ。厄介な帰化植物ではあるが、すっかり秋の風物詩になってしまった。旺盛な生命力はよく知られているところであるが、自家中毒作用があるため同一地域を長年にわたって占拠することは無いと聞いたことがある。 |
【思ったこと】 991018(月)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(4):教養教育の質を向上させるには(その3) 17日の日記の続き。 だいぶ昔の話になるが、大学紛争が収束した頃、ある老教授が講義の途中でとつぜん ボク、君たちの前で講義ができて嬉しいよ...といって声を詰まらせてしまった。学生たちももらい泣きしてしまったというような新聞記事を読んだことがあった。この老教授にとって「講義をする」ことは「自分の考えがみんなに伝わる」、「みんなが納得する」というような結果、つまり行動内在的な強化随伴性によって強化されているということができる。しかし、いまの時代、大学の教官は、研究費の獲得、個人の研究業績の評価、大学院教育の充実など非常に多くの仕事をかかえており、残念ながら「ボクは授業ができて嬉しい」という美談だけで教養教育が遂行できる環境にはない。放っておけば、片手間にノルマとしてこなすだけの授業になってしまう恐れがある。昨日も指摘したが、いまの教養教育には
昨日の日記では、(1)「熱心な教育」をどう測定し、(2)どういう質的な結果を与えていくか、に関連して、基本はやはり学生側の評価を尊重すべきであろうと述べた。そのさい、出席もとらず単位を簡単にくれる先生のところに人気が集中する恐れもあると指摘したところ、がくもんにっき。のnackさんから ご存じのようにアメリカでは、特に入門レベルの授業については学期末に生徒にマークシート式評価をさせるのが常ですが、それをみると、やっぱりいくら楽でもつまらない授業は評価は高くなってないという印象があります。というのも、質問事項に、教官のクォリティーについて数項目、授業の内容について数項目などわりと細かいことが含まれるから…だと思います。いくら「この授業は楽チンだったなー」と思っても、ウソはなかなかつけないということでしょうねー。(つまり、おもしろくないものにおもしろいと嘘をつくのは抵抗があるし、そんなことをする義理もないということでしょう)という情報をいただいた。どうもありがとうございました。じつは岡大でも、教官の任意申し込みという前提のもとで、マークシート方式による学生の授業評価が行われている。私が前期に担当した一般教育「こころの科学」の結果が先日届いたところでもあるので、この連載の中でご紹介させていただきたいと思っている。 さてこの種のマークシート方式のほかに、どういう評価方法が考えられるだろうか。 いちばん手っ取り早いのは、大学の授業料をいまの半額にした上で、教養教育科目の履修に際して科目ごとに別途受講料を支払うというものだ。こうすれば学生だって、履修登録だけして一度も出てこないというような勿体ないことはしないはずだ。社会心理学の本に出てくるように、受講料が高ければ「この授業は私のタメになる」という方向に認知的不協和が解消され、一生懸命受講するようになるだろう。また、世間話や自分の思い出話ばかりするような教官が万が一あっても、誰も受講料まで支払って授業を受けに来たりはしない。結果的にそういう質の悪い授業は淘汰されていくだろう。 学生に受講料を支払わせる以上、教える教官側の給与体系もそれに見合うように変更していく必要がある。たとえば、俸給を今の半額にして、受講料収入の額に応じた加算を行う(研究面においても、アメリカでは定率加算金のシステムがあるというが、この功罪についてはいずれ日を改めて意見を述べることにしたい)。 以上述べたことは単なる思いつきであり、それを導入した場合の弊害についてもっと考えてみる必要がある。例えば、このシステムを無制限に導入した場合、受講生を増やすという行動はすべて受講料収入加算金によって強化されることになり、結果的に、タレント型の教官が生まれ、授業内容もヘタをすると低俗な興味(何が「低俗」にあたるかという議論は別に必要だが)を満たすだけのワイドショーになってしまう恐れもあるだろう。もちろん、これは大学のレベルにもよるだろうが...。 これ以外にもいくつかアイデアが浮かんだが、時間が無いので明日以降に続く。 |
【ちょっと思ったこと】
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【本日の畑仕事】
ミニトマトいっぱい収穫。大根種まき。 |
【スクラップブック】
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