じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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心理学動物実験室前のコスモス。朝の冷え込みとともに色づきがよくなってきた。コスモスは秋桜と書くようにもともと秋の花であるが、最近は、日の長さに関係なく、発芽から一定の日数が経過すると開花する品種が多く出回るようになり、極端な場合は7月から花をつけることがある。とはいえ、やはり秋に咲いてこそ秋桜。 |
【思ったこと】 991017(日)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(3):教養教育の質を向上させるには(その2) 14日の日記の続き。 学生が自力で学ぶことをサポートすることが大学教育の基本であろうとは指摘したが、授業を行う以上はその質の向上につとめるのは当然のことである。特に、入学したばかりの学生に対して、学問のしくみ、科学の目的と方法、価値や生きがい、個人と社会といった諸問題について、体系的な理解を深めることは、より幅の広い視野から自分の専門をとらえ、時としてパラダイムシフトに結びつくような柔軟な発想を生み出す上でも大きな意義があるものと考えられる。教養部は廃止されてしまったが、全学的な取り組みのなかで質の高い教養教育を実現させていかなければならない。 しかし、教養部があった時代も廃止されてから後も、教養教育に熱心に取り組む教官はそれほど多くないように思う。その最大の理由は、「研究が第一、教育はその合間にノルマとしてこなすもの」とされ、教官の採用、昇進、研究費配分のすべてが、研究のほうの業績だけで評価されてきたことによる。 じっさい、某大学を例にとると、教養教育の出講コマ数は、教官の頭数から割り出されたノルマと、旧教養部から移籍した教官数に応じたノルマの和として機械的に決定されることが基本となっている。行動分析学的に分類すれば、これでは「教えたい」教育ではなく「しなければならない」教育になってしまう。つまり、質の向上に取り組む行動を強化する随伴性が適切に用意されているとは言えない現状にあるのだ。 ではどうすればよいのか。学生の勉学に対してその努力に応じて結果を与える必要があるのと同様、教官が行う授業についても、熱心に教育する行動に対して、その努力に応じて適切に結果を与えていくことが必要になってくると思う。いくら高邁な教育理念をかかげたり、教養教育の重要性を説いて教官の奮起を促したとしても、現実の行動がきっちりと強化されるシステムを作らない限りはかけ声倒れに終わってしまうことは目に見えている。いつまでも、教育に「熱意のある先生」や教養教育に特別に関心がある先生だけの善意に頼っていたのでは進展は期待されない。 問題は、(1)「熱心な教育」をどう測定し、(2)どういう質的な結果を与えていくかということになる。 前者については、基本はやはり学生側の評価を尊重すべきであろう。簡単に言えば学生が「この授業は分かりやすくタメになった。来年もぜひ受けたい。」と希望する授業を増やしていくということだ。もっとも、単純な人気投票では、出席もとらず単位を簡単にくれる先生のところに希望が殺到する恐れもある。成績評価が適切になされているかについては単位取得の利害関係をもたない第3者による何らかの外部評価を導入することも必要ではないかと思う。それと、学問の性質上、受講生は少ないが大学として開講する必要のある授業(例えば特殊な外国語)については別途配慮する必要がある。 後者については、
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【ちょっと思ったこと】
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【本日の畑仕事】
ミニトマトいっぱい収穫。接ぎ木苗の台木から実をつけた赤茄子の枝を観賞用に切り取る。エンドウ種まき後半完了。雑草取り。 |
【スクラップブック】
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