じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 9/28は夕焼けがとっても綺麗に見えた。文学部4階の西側テラスより。18時4分頃撮影。なお、左側中段のあたりに見える彗星のような光点は飛行機雲。


9月28日(火)

【思ったこと】
990928(火)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その4)にんげんは蜘蛛の巣のようなものか

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告の最終回。私自身の感想を述べることでまとめに代えたいと思う。なお、これまでの連載は以下の通り。。
  • (1)共有現実性
  • (2)自己高揚のアメリカ人、自己批判の日本人
  • (3)自我原理主義の限界と日本型システムのなかの<にんげん>

 まず、社会心理学の研究の流れの中で、自己を外部世界から切り離された独立的存在としてとらえるのではなく、他者との関係の中でとらえようという傾向が強まっていることは、まことに結構なことだと思う。物事を何かに例えるとかえってその本質を見失う恐れがあることを承知であえて例えるならば、個人というのは林の中に張りめぐらされる蜘蛛の巣のようなものかとふと思った。蜘蛛の巣のどういう点が人間に似ているかと言えば
  • 枝(他者を含む外部環境)に掴まらなければ存在しえない。
  • それぞれの巣は独立しているが、どこからどこまでが巣の中心部というわけでもない。
  • 巣の形は多少違っても材質は同じ。
  • 巣を作るプロセスには共通性がある。
  • 巣に振動を与えた時の反応のしかたに共通がある。
  • 巣が多少壊れても修復できる。
  • 同じ場所に張られた巣でも常に修復が加えられている。
 遠藤由美氏の共有現実性(shared reality)はたいへん興味深い概念であると思ったが、25日の日記にも書いたように、行動分析学的には「随伴性の共有」ということで説明ができるように思う。社会心理学では随伴性概念はどのように捉えられているのだろうか。

 北山氏と濱口氏の講演の中では日本人と欧米人(主として米国人)との違いを示す実例がいくつか挙げられた。こうした違いを単に正確に記述するというレベルにとどまるだけでなく、リアリティの基盤にアイデアをという置くという視点で心理学の研究を進めていくことは、文化人類学や社会学諸分野にも大きな影響を与えることだろう。

 もっとも、「日本人は○○、米国人は××」というような区別は、通俗的な話題として一人歩きしやすく、時にはステレオタイプな外国人観を形成する恐れがある。日本人の中でも自己高揚的な人もいれば自己批判的な人もいる。日本でもある種の集団の中では自己高揚的な行為が賞賛される場合もあるだろう(営業目標重視の職場、スポーツ界、学習塾、ひょっとして大学院研究室)。時代によっても変容しうるものである。北山氏は“「文化」そのものは見つけられない。アイデアに基づいて構成される状況の性質のかたまり”のようなものだと言っておられたが、その普遍性がどの範囲まで及ぶのか、今後の検討を待ちたいと思う。

 「日本人は○○、米国人は××」というような区別は、おそらく教育現場や企業内で何かの行動を増やそうとするときに有用な知識を与えてくれるに違いない。例えば子供のしつけ、大学改革、企業の生産性向上など。ただそれらが「有用」というレベルを越えて、本質的に異なる原理を必要とするほどの違いになるかどうかは疑わしい。北山氏にも質問したように(26日の日記参照)、賞賛とか思いやりというのは、言語的な強化という点では変わらない。単に強化の対象が違うだけであるようにも見える。もしそうならば、文化という概念は、強化の随伴性をより有効に働かせるための補助的有用情報としてのみ意義をもつことになる。

 北山氏は、米国(自己高揚とそれに対する賞賛)や日本(自己批判とそれに対する調整や思いやり)がそれぞれどういう歴史的基盤の中で淘汰され定着するようになったかということまで関心をもっておられるようだった。ただ、異なるタイプのシステムというのは、生物進化と同様で、適応性の高いものが生き残るとは必ずしも言えない面がある。なかには偶然的に残る場合(=運がよかった)もあるだろう。個人レベルの行動でさえ過去のヒストリーにさかのぼって原因を求めるのは困難。科学的・実証的な研究がどこまで可能であるのか、このあたりも今後の発展に期待していきたいと思う。
【ちょっと思ったこと】
【本日の畑仕事】
ミニトマト、ナス、ピーマン、枝豆を収穫。水やり。