じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 赤トンボ。大学構内では各種のトンボが乱舞しているが、飛んでいる場面をデジカメにおさめるのは至難の業。このように止まった瞬間を狙うしかないが、一日中飛びっぱなしで枝に止まらない種類もいる。


9月26日(日)

【思ったこと】
990926(日)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その2)自己高揚のアメリカ人、自己批判の日本人

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告2回目。今回は北山忍氏(京都大)の講演「自己の心理・対人・状況的基盤---文化心理学の視点---」について感想を述べることにしたい。

 北山氏は今回の演者の中では唯一、院生時代からの顔見知りで一応後輩にあたる。私がオーバードクターだった頃にフルブライトでミシガンの大学院に入学。そのまま向こうで学位をとり、オレゴン大学で確か准教授をつとめてから京大に赴任。社会心理学、文化心理学方面では世界的な権威として知られており、後輩とは言っても雲の上の人。京大出身の歴代心理学者の中では間違いなく5本の指に入る天才だ。

 分野が違うせいもあって、北山氏の講演を直接拝聴するのは院生以来初めて。スピーチの内容がすべて頭の中できっちり体系化されておりさすが世界のキタヤマは違うという印象を受けた。

 講演はご自分のミシガン大学留学の体験を通じて、社会心理学の諸理論がアメリカの文化をうまく説明できる反面、日本で同じことを当てはめようとしても時として逆の結果が出てしまうことに気づいたという話から始まった。そして、その違いは単に文化と主体の相互の影響というレベルではなく、それらを相互に構成しあうものとして理論化されなければならないというのが今回の主たるテーマであると理解した。

 講演では日本人とアメリカ人の違いを示すいくつかの調査、実験例が引用された。それらを簡単にまとめると、アメリカ人は一般に仕事(あるいは試験、試合など)が成功した時にはそれを自分の能力に帰属させ、失敗した時には課題の悪さ(課題自体や出題者...)に帰属させ、このことを通じて自己高揚的な傾向を維持する。ところが日本人で同じような調査や実験をやっても、自己高揚的な傾向が出てこない。日本人の場合はむしろ自己批判的、しかも単なる表面的な謙遜にとどまるものではないという。

 日本とアメリカの文化差は動機づけシステムにも違いをもたらしている。子どもをしつける時、親はどうしても基準を高く設定して完璧主義に走る。例えば、テストで80点を取った時はその努力を褒める代わりに「もっと頑張りなさい」と言う。95点の時は「あと5点ね」、それなら100点取ったら褒めるかと言えば「次も100点取りなさい」と言う。こうした傾向は、日本古来の伝統芸能や柔道、剣道に見られる「型重視」に根ざすものかもしれない。野球解説者が清原選手のフォームにばかりこだわるのも同じというような話だった。

 またある実験によれば、アメリカ人は課題に成功した場合に任意(やってもやらなくてもよい)の課題を自発的に取り組むことが動機づけづけられるのに対して、日本人被験者はむしろ失敗した時に「もっと一生懸命やろう」という形で動機づけづけられる傾向が見られたという。このあたりを行動分析的に再解釈すればアメリカ人は「好子出現」の随伴性で、日本人はそれよりも「好子消失阻止」や「嫌子出現阻止」の随伴性で制御されやすい(←文化的に、そういう確立操作がはたらきやすい)ということになりそうだ。

 こうした文化差は対人関係をつかさどる「ゲーム」にも違いをもたらす。アメリカ人では相手が成功した時にその自己高揚(Having and willing to express a high self-esteem)を賞賛(Approval, praise, and admiration)するような働きかけが潤滑油となって自己と対人関係の相互構成過程を形成する。これに対して日本人の場合には、自己批判(Having and willing to express a self-critical attitude)に対する調整や思いやり(Adjustment, sympathy, and compassion)が重要な役割を果たしているという。

 セミナー終了時に質問を述べる機会があった。私は、この北山氏のモデルについて
自己高揚と自己批判の違いはよく分かったが、Inter-individual phaseとして挙げられている賞賛(Approval, praise, and admiration)と調整・思いやり(Adjustment, sympathy, and compassion)はどちらも言語的な強化という点では変わらない。単に強化の対象が違うだけであるようにも見える。機能的な違いがあるとしたらどういう点か、両者を区別する必要があるのか
と尋ねてみた。北山氏はそれはたいへん良い質問だと褒めてくれた上で、その部分だけを取り上げれば両者ともポジティブな働きかけという点で変わらないが、2つの相互構成過程の歴史的生成まで考える時には区別が必要であろうとの見解を述べられた。

 北山氏は、日本の農耕的気風、俗的現実主義、儒教思想、禅や浄土仏教などの文化的自己観まで組み込んで日本的自己の歴史生成を考えておられるようだ。今後の御研究の発展に期待したい。
【ちょっと思ったこと】

 最近ますますパソコンに熱中するようになった息子が、将棋ソフトで面白い実験をしていた。盤上の駒は先手後手とも玉のみ。残りの駒はすべてそれぞれの持ち駒である。息子の実験というのは、対戦相手を両方ともコンピュータにした場合、先手はどうやって相手を詰めるだろうかというものだが、思考時間が長すぎて結論は出ていない模様。

 このことでふと思ったのだろうが、盤上に玉のみ(位置は本来の5一玉)を置き、持ち駒は対戦時の味方の駒全部(飛、角、金2、銀2、桂2、香2、歩9枚)という条件で最短手数で詰ませるにはどうしたらよいのだろう。ちょっと考えてみたところでは、第1手目は、5三に飛車を打ち、玉が一段目に逃げた場合には二段目に銀を打って釣り上げ、二段目に逃げてきた時は三筋に金を打つ。合い駒で受けた時は離れたところに角を打つ.....。こういう感じでたぶん詰むようには思うが、これが最短という保証はない。どなたか最短の詰め方をお教えいただければ幸いです。なお、いま述べたのは詰め将棋の場合だが、息子の最初の実験のように、先手・後手とも玉だけを置いて対戦するというケースもある。詰め将棋と異なるのは、必ずしも王手を連続させなくてもよい(必至でもよい)こと、それと、守るために打った駒が相手方に逆に王手をかける場合があるということ。そもそもノーマルな将棋の対戦で先手必勝にならないのは、途中まで真似手を打っていた後手側に先に相手の駒を取れる手が発生するためであったと記憶しているが、玉2枚だけの配置でもそういうことがありうるのだろうか。このあたりもお教えいただければ幸いです。