じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 百日草。名前ほどではないが、長期間にわたって開花する。ここ4〜5年は特に種まきなどせず、自然に生えた花を楽しんでいる。


9月25日(土)

【思ったこと】
990925(土)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その1)

 京大文学部で行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」に参加した。このセミナーは、私の指導教授にあたる本吉良治先生の御退官を記念して開設されたもので、毎年2回、各回3人の講師をお招きして最先端の研究の話を聞くという集まりだ。殆ど広報らしい広報を流していないので出席者は大部分が京大文学部の院生やOBに限られているが、趣旨としては誰でも参加自由。参加費無料となっている。今回のテーマは「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」。企画・司会は金児暁嗣氏(大阪市大)、講師は、遠藤由美氏(奈良大)、北山忍氏(京都大)、濱口惠俊氏(滋賀県立大)であった。

 「自己」という概念は社会心理学やパーソナリティ心理学においてこの20年の間、最も関心を集めてきたテーマの1つだと言う。もっとも、私が専門とする行動分析学の分野では相対的に関心の度合いが少ない。個々人の行動を説明するにあたって、自己概念を必ずしも必要としていないためである。それだけに、「自己」を専門的に研究している第一線の研究者から話を聞くのはまたとないチャンス。できれば日頃の疑問もぶつけてみようと上洛した次第。

 まず今回のセミナー全体に共通する特徴をあげれば、自己を外部世界から切り離された独立的存在としてとらえるのではなく、他者との関係の中でとらえようとしている点にある。これは最近の社会心理学の中心的な流れであるという。もっとも、私のような行動分析学的な見方をする者から言わせてもらえば、もともと行動というのは外界との関わりの中で規定されるもの。外界や共同体から独立した自己などあり得ないし、言語行動すら共同体を前提として定義される。基本的な見方自体はそれほど目新しいものではないようにも思えた。自己が個人の内部に確固として独立的に存在し、そこから発する意志に基づいて行動が発現するいう見方をとってきた人たちにとってはかなり斬新なアイデアであるのかもしれない。

 さて順序に従ってまず遠藤氏の講演から。遠藤氏の中心テーマは共有現実性(shared reality)。現実は他者と共有できる程度において確かなものになるという考え方だ。少し前にイラン皆既日食に関連して
どんな体験でもそうだと思うが、送り手と受け手の間に何らかの類似体験が無ければ、言葉や映像をどのように駆使してもその感動を伝えることはできないものであると私は思う。そして、類似体験による例え話にも限界がある。何かに似ていると伝えることは、本物を伝えたことにはならない。
と書いたことを思い出した。もっとも、フィクションとはいえ長期間孤独な生活を強いられたロビンソンクルーソはどうなるのだろう、共有現実性より「共有随伴性」のほうがうまく説明できるのではないかなあ、などと思ってみたが残念ながら質問をする機会がなかった。

 そのあと、「逸脱とみなす者(マジョリティ)とみなされる者(マイノリティ)」、「関係性自己・対人的自己」などに関して興味深い話が続いたがここでは省略させていただく。

 講演の終わりのほうで、「現代社会とアイデンティティ」に関してネット愛好者にとって興味深い事例が紹介された。それは、もともと現実社会で人間関係の希薄な人がチャットで別の人物を装うと人格が分裂し混乱・不安を増大させる恐れがあるという話。正確には聞き取れなかったけれど、例えば中年男性が女子高校生のハンドルでチャットに参加し受け答えを繰り返しているととんでもないことになるというような話が紹介された。「匿名でWeb日記を書いている人が裏日記で別のキャラづくりをめざすとどうなるんでしょう?」と質問してみたいところだったが、これも残念ながら機会が無かった。

 上記とも関連するが、例えば特定の職業やキャラを装って社会的接触を保っていると、ホンマにその人物になりきってしまうという可能性があるようだ。これを敷衍すると、例えば大学院生の方が大学教授を装ってWeb日記を書き続けていると、大学教授らしいパーソナリティが形成されるということになる。もっともパーソナリティだけ教授らしくなることが現実の就職や昇進を早めることになるのか、逆に反発を招いて就職・昇進を遅らせる効果をもたらすのかは定かではない。

 明日以降に続く。
【ちょっと思ったこと】

 京都のセミナー参加後、某都市に移動。地下鉄に乗っている時、
大学に合格したぐらいで燃えつきてしまうような私たちではない
という車内広告が目にとまった。私立中・高校の入学案内の広告であったが、はて?燃え尽きるほど受験勉強に精を出す高校生がどのぐらい居るのだろうか。この高校は燃え尽きないためのどういう教育を行っているのだろう? それとも燃え尽きない程度に勉学も省エネしましょうという意味なのかなどと、茶々を入れてみたくなってしまった。

 視線を移してみると、驚いたことに車内広告のすべてが私立中・高校の入学案内ばかり。いくら少子化でも凄い地下鉄があったもんだと思いつつ、どんな宣伝文句があるのかメモしてみた。
  • 伸びやかな未来を描く
  • きょうから ともだち
  • 全員が燃えています
  • 一人ひとりが輝く瞬間(とき)を求めて
  • 翔びたて わたし
  • “喜び”と“真剣さ”あふれる学園をめざして
  • エンブレムは 語る
  • 私らしい明日へ
  • いろんな夢に出会いたい このキャンパスで
  • 麦は散らすことで芽をふくもの
うーむ。ありきたりのフレーズばかりだなあ。最後の「麦は...」というのだけ意味が分からないが、聖書の文言か何かを引用したのだろうか(←私が教養が無いのがバレバレ)。

 そんななか、セーラー服の女生徒が胸をはってこちらを向いている写真があった。

私たちの胸を誇りに

うーむ、これは凄い広告だ。女性の身体的特徴を強調してもセクハラにならないんだろうかと思ってよく見たら、ぢつは
私たちの誇りを胸に

だったのね。もし同じ地下鉄に乗り合わせた方があったらお互いを更新する掲示板あたりでご報告いただければ幸いです。