じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 岡大事務局前に咲き始めた彼岸花。今年のように残暑が厳しかろうが秋の訪れが早かろうが、きっちりと秋のお彼岸の頃に花を咲かせるのだから凄い。夏場には葉も出ていないのにどうしてこの時期が分かるのだろうか。余談だが、以前ある女性のWeb日記で、小学生の頃この花を教室の花瓶に飾ったら担任の先生が形相を変えて「何でこんなものを飾るんですか。さっさと捨ててきなさい。」と言われたということを書いておられた。一部の地域ではこの花を忌み嫌う風潮があるようだが、教師個人の価値観がどうあれ、学校教育の現場にまで迷信を持ち込み子どもの善意を傷つけるとは言語道断。

9月19日(日)

【思ったこと】
990919(日)[教育]中途半端な競争ではなく、努力に結果を与える運動会こそ大切

 12日の息子の中学の運動会に引き続き、今週は娘の小学校の運動会。この日の岡山は最低気温が25.8度(平年より+6.1度)、最高気温が31.9度(+4.7度)と、お盆の頃と変わらない暑さ。幼稚園から数えると子どもたちの運動会への参観は息子が11回目、娘が8回目、合計19回目になるが、これほど暑い運動会は記憶になかった。

 娘が通う小学校は各学年4クラスで、リレーはクラス別に赤、黄、緑、青の鉢巻きをしめる。このうち赤と黄が赤組、緑と青が白組となって得点を競うしくみになっているようだが、少子化の影響か、2学年だけ3クラスとなっていて青組が存在しない。不公平にならないのかと娘に聞いてみたが、こういうことは毎年あるのだという。そのほか、リレーはすべて男女混合というのも印象に残った。小学生の体格では、女子より男子が速いとは必ずしも言えないようだ。

 運動会を見に行くたびにいつも思うのだが、紅白に分かれて得点を競うことの意味づけが今ひとつはっきりしない。トランプゲームと同じように楽しみを増すためのトッピングならそれも結構。教育目的で得点を与えるというならば、各自の努力がその量に応じて評価されるような随伴性のしくみを設定したほうが効果的ではないかと思う。

 例えばリレー。娘に聞いたところ、実際に練習したのは2〜3回だけだという。これでは単に「もともと足の速い人が居たから勝てた」(あるいは「もともと足の遅いひとが居たから負けた」)というように、勝ち負けの原因は努力ではなく参加者のもともとの能力に帰属されてしまう。得点種目として設定する以上、事前にもっと練習をさせ、努力することが勝利に結びつくのだということを体験させなければ意味がない。

 もっともクラス全員が同じ量の練習をしたのでは相対的な順位はあまり変わらない。となれば、順位ではなく、個々人のタイムで競うというのも一案だろう。順位はいつも最下位であっても、個人記録が伸びたことに得点を与えてやれば、努力に応じた強化が可能となる。

 ところで、こういうことを書くと、得点とか競争にこだわらせるのは教育上よろしくないとクレームをつける人が居るが、これは競争の功罪を正しく理解していないことからくる感情的な反発にすぎないように思う。

 同じ競争であっても、努力に応じて好結果がもたらされるような競争であれば動機づけとしては大いに有効。これが守られる限り、競争で負けても「今回は努力が足りなかった。次はもっと努力しよう」という好ましい原因帰属がなされるはずだ。

 いっぽう、努力が正当に評価されないような競争、例えばもともとの能力、体力、体格の違いだけで結果が決まってしまうような競争とか、裏技(他者をおとしめるような不正行為)を使うと努力しなくても勝てるような競争は教育場面ではゼッタイにやめさせなければならない。また「競争は常に悪だ」という固定観念のもとに、努力に応じて結果が伴うような随伴性の導入までを排除してしまうのも間違っている。これは競争原理一般についての考え方にも繋がる問題であるが、要するに、競争原理自体が良いか悪いかを論じるのはナンセンス。努力が正当に評価されるような競争を導入する一方、別の不適切行動が付随的に強化されるような競争は改善もしくは排除していくという姿勢が肝要。このあたりを正しく区別するためには、行動随伴性の原理をちゃんと理解する必要がある。

 今述べたことを運動会に適用していくためには、もっと多様な競技を導入していく必要がある。一昨年の日記(1997年9月28日)に書いたように、いまの運動会の大部分の競技は、体格のよい子が一位になれるようにできている。体の小さい子でも特技を発揮できるよう、鉄棒競技を入れるとか、縄跳び選手権をやるとか、いろいろ工夫できると思う。足の弱い子のためには剣玉選手権があってもよいし、障害児のための車椅子競争があってもよい。自分が努力したら必ず金メダルがとれるような種目を開発することが大切ではないかと思う。

 話題は変わるが、マスゲームとかダンスのような集団演技についても正しく理解する必要がある。皆が一斉に同じ動きをするように訓練することは協調性を身につけ集団への適応を高める効果があるように錯覚されてしまう。しかしホンマのところは、号令、音楽、周囲の動きを弁別刺激として規則的な動きをするように訓練されているだけのこと。見かけ上全員の動きが揃ったからといって、それが協調性を養ったことにはならないし、まして日常場面で思いやりのある行動を増やすこととは全く無関係だ。

※Web日記を2年以上も続けていると運動会について思ったこともだんだん蓄積されてくるものだ。一昨年の日記(1997年9月28日)には、いま上に書いた内容のほか、
  • 体に障害をもつ子供たちに参加の機会を与えていること。
  • 児童が親たちと一緒に昼食をとる「ふれあい弁当」の導入。
  • 運動会でいつも疑問に思うのだが、なんで紅白に分かれて点数を競い合う必要があるのだろう。
というようなことが記されていた。昨年の日記(1998年9月27日)では、
  • 女の子たちの体操服がブルマーからショートパンツに切り替えられてきたこと。
  • リレーのチームの色である「赤、青、緑、黄」に関連して、「色としては基本であるはずなのに言い回しに微妙な差があるのはなぜだろうか。」という疑問が記されていた。ここでいう言い回しとは、なぜ「黄」だけは「色」をつけて「黄色組」とか「黄色い」というように使うのだろうかとか、「赤い」「青い」とは言うが「緑い」とは言わないのはなぜだろうか、というようなこと。
が書かれてあった。2番目の色についての疑問は未だに解明されていない。
【ちょっと思ったこと】
  •  9/20の朝日新聞によれば、飼育飼料や小鳥を輸入する業者、鳥かごのメーカーなどで作る日本飼鳥普及振興会が、ペットしての影が薄くなっている小鳥の魅力を見直してもらおうと、10月16、17日に大規模なイベントを東京で開くという。ペット用の小鳥の飼料の輸入量はピークだった1979年が約6万3000トン。98年度は1/3以下の約1万6000トンに減少。原因として、子供の娯楽がコンピュータゲームなどに多様化していることがあげられていた。

     そういわれてみれば、私が子供の頃、実家ではセキセイインコ、ジュウシマツ、文鳥、ベニスズメなどを飼育していた。ペットとは言えないがニワトリを飼っていたこともあった。近くの鳩舎の伝書鳩が飛行訓練をしているのもよく見かけたものだ。

     ペットとして小鳥を飼わなくなったのは必ずしもコンピュータゲームの影響だけとは言えないだろう。ハムスターだったら籠の中でも最適の生息環境を実現できるけれど、小鳥の場合はどうしても自由を束縛しているという印象が強い。さらにハムスターなら一週間分の餌と水を与えておけば旅行にも行かれるが、小鳥は一日でも世話を怠ると死んでしまう。その時のショックも大きいものだ。

     このほか犬や猫と違って手で撫でられないという不満も残る。業者さんには悪いが、庭先に餌台を置いて野鳥の観察でもしていたほうがよっぽど気楽かなあというのが率直な感想。
【今日の畑仕事】
水撒きのみ。
【スクラップブック】
  • 1964年に行われた東京オリンピックの開会式入場券は927円。当時の物価と比較するとラーメン15杯分、新幹線の東京〜静岡間の運賃・料金に相当する[9/20朝のNHKニュースによる]。