じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] イラン・シーラーズのエラム庭園のバラ。エラムとはペルシャ語で「楽園」を意味するのだという。砂漠が多いせいかイランの人々は花をとっても大切にしているように見えた。なかでもバラはどの庭園でも見かけた。このほか切り花としてはグラジオラスが一番多かった。特別の意味があるのだろうか。

9月10日(金)

【思ったこと】
990910(金)[心理]生きがい本の行動分析(5):宇野千代さんの『行動することが生きることである』

  5月11日の日記以来、久々の連載。今回は、宇野千代さんの著作を取り上げる。数ある「生きがい本」の中で宇野さんをとりあげたのは、前回のスキナーの“Enjoy Old Age.”と似通った主張が多、く、つながりをもたせる点で最適と考えたからである。じっさい宇野さんの著作の中には『行動することが生きることである』(1988年)という行動分析学的?なタイトルまである。ここではそれを含めて、『幸福を知る才能』(1982年)、『幸福は幸福を呼ぶ』(1985年)、『私の幸福論』(1993年)を取り上げていきたいと思う。なお、これらの書の発行所はいずれも海竜社。以下、紙面の節約のため、発行年の下2桁で出典を区別する。

 宇野さんは、1897年山口県生まれ。代表作『おはん』のほか著作多数。ネットで書籍検索したところでは9月現在で115〜119件がヒットした。その一方で、きもののデザインの仕事もこなす。4度の離婚、2度の破産、3度の大きな病気を克服されたが、1996年6月に98歳でお亡くなりになった。宇野さんの本には著名な大哲学者の言葉の引用は殆ど無いし、いちいち根拠を挙げて論証するような書き方もしていない。にもかかわらず読者を納得させる力があるのは、作者自身の波乱万丈で豊富な人生経験が滲み出ているからであろう。もっとも私自身は、宇野さんの実際の生きざまについては何ひとつ知らないし、文学作品を熟読したわけでもない。ここではあくまで書物の上で書き記されたものだけを対象に、生きがい論や幸福観の特徴を探っていくことにしたい。

 宇野さんの生きがい論を一口で言うならば「人生は死ぬまで現役である、老後の存在する隙はない」(88年, 215頁)ということになろうかと思う。これは前回とりあげた“Enjoy Old Age.”と完全に一致する見方だ。とはいえ、死の直前まで絶望せず生涯現役を貫くということは並大抵のことではない。宇野さんは次のような見方を大切にしている。

 まず、どんな人生でも困難がつきまとう。これに対しては、「困難に出会うと、本能的に、その困難を打開してみたい」という衝動が起こるのだという(88年, 22頁)。他にも「何か困ることがあって、それを少しずつ直して行くのが好きである」(88年, 22頁) とか「...何をするのにも、このことをするのには、どうしたら一番好いかと言うことを、貪婪に考える。」(88年, 26頁)と記されている。要するに、困難をストレスとせず、またそこで余計な迷いで悩んだりせず、「打開する」、「改善する」行動が「創出」や「達成感」(93年, 66頁)という行動内在的な結果によってポジティブに強化されることで楽天的で前向きの生き方を貫くことができたのだ。

 さて老後になってくると、体力も知力も衰え、今までと同じことができなくなってくる。この点について宇野さんは、「積み重ねた努力が才能の花を咲かせる」(93年, .49頁)、さらには「今、現われている能力は氷山の一角である...まだまだ、ほんとうの力を出し切っていないのだから、と、毎日毎日、精出して仕事をしている」(85年, 40頁)として、物理的な体力は衰えても、努力に対してより大きな好子が随伴する可能性を信じ続けた。また物理的な衰えに対しても、上記な前向きの発想から「眼鏡でも、補聴器でも、現状に合ったものに変えてみるのもまた勇気ある選択なのですね。」、「...歯と補聴器の経験は、私に新しい喜びを与えてくれたのでした。」として常に改善が好子となるような姿勢を貫いておられる。

 スキナーも宇野さんも無神論者では無いが、少なくとも神に頼らない生き方をした。「...神さまと言うものは、その辺にはいないのである。...もっと、雲の上のような、凡人の眼の届かないところにいるに違いない、...」(82年, 89頁)という言葉によく表れている。雲の上の神さまが直接好子を与えてくれることはないのだから、「...仕合わせを自分で作って、自分で探す...」(82年, 89頁)必要が出てくるわけだ。天国を究極的な好子に設定してルール支配行動を貫く人の場合には、天国への接近という形で体力・知力の衰えをカバーできる可能性があるが、宇野さんはそういう考えはとらない。いま強化されること、そして年をとればとるほど新しい才能が開花することが生きがいの基本となっている。

 「自分が幸福だと思えば幸福であるし、不幸だと思えば不幸なのです。」(93年, 12頁)というのは一見、具体性の無い精神主義的な発想のように見えるが、宇野さんはじっさいは、「心の持ち方」を云々する以前に、ちゃんと生活環境を整備しておられる。宇野さんの住まいは「単純明快が美しさの原点」(93年, 166頁)に基づいて設計されており、寝室兼書斎の「机の上には、いつでも、原稿用紙と鉛筆と文鎮が用意」(93年, 172頁)されているという。この仕事場の様子は何冊か巻頭写真で拝見することができるが、よく削られた鉛筆が机の右横に整然と積まれているのが印象的だ。周りを変えることの工夫はこのほか、家の設計、きもののデザイン、おしゃれ、食生活全般にわたるまで実に行き届いている。そのことによって創造的な行動が自発しやすくなり、より大きな好子が随伴しやすくなる。読者が宇野氏の著作から学び取れる最大の情報は、まさにこうした環境整備のノウハウにあると言ってよいだろう。

 このほか、結婚や対人関係についてもいろいろためになることが書かれてあるが、今回は紙面の都合で省略させていただく。スキナーやその他行動分析学関連の書物を一冊もお読みになっていないと推定される宇野さんが、自己流の最良の生き方を追求され、結果的にスキナーに酷似した人生スタイルに到達されたという点はまことに興味深い。

 以上、某所に投稿する原稿の下書きのようなものを載せてしまったが(←編集者のしま○ねさんがここを見ていないことを祈る)、私が拝見するWeb日記の中で以前より何となく雰囲気が暗くなったようなものが複数あったことから敢えてアップさせていただいた。宇野さんと同じ生き方をするにはそれなりの才覚も必要であろうし、また、すべての職業で生涯現役を貫くことができるわけでもないが、何らかの景気づけになれば幸いだ。それから、宇野さんの著書は多数あるが「生きがい本」に関してはどの本にも同じようなことが書かれてある。何冊も買い揃える必要はない。今回拝見した中では、95歳の時に刊行された『私の幸福論』(1993年)一冊だけを読めば十分であるように思えた。
【今日の畑仕事】
ミニトマト、メロン収穫。
【スクラップブック】