じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] モナルダ。「たいまつ花」あるいは「矢車ハッカ」とも言う。確かにたいまつが燃えているような感じがする。後ろの黄色い花はルドベキア。後ろの山は半田山。ここも大学構内。


7月12日(月)

【思ったこと】
990712(月)[日記]誰がHPにすべてを捧げるもんか

 小豆島の合宿に行っている間にEメイルがいくつか入っていた。そんななか、某社から取材の申し込みのメイルが届いていることに気づく。何でも、睡眠時間、健康、友人、そして膨大な時間を犠牲にして、なおかつHP運営に没頭している人達に取材するという企画らしいのだが、何でまた私に白羽の矢が立ったのだろう?

 この日記で何度も取り上げているように、私がWeb日記を書く上での大前提は「現実の生活あっての日記」、「現実の生活をより充実させるための日記」であって、「生活を犠牲にして書く」日記ではない。

 いただいたメイルの書き出しは「エネルギッシュな貴殿のホームページを興味深く拝見し...」となっているけれど、社交儀礼ではなくてホンマに興味深く読んでいただいたのであれば、そういうことは日記にちゃんと書いてあるはずなんだが...。

 Web日記についてのマスコミの取材にありがちのことだが、何かのランキングなどを頼りに、上位のHP開設者多数に同一文のメイルを送りつけ、好返事のあった所だけに取材してあたかも全貌を把握したかのような内容の記事をでっち上げるのだろうか。いや、そこまで言ってしまってはせっかく注目していただいたことに申し訳ないとは思うが、「お名前(本名)、年齢、住所、電話番号、勤務先」などのプロフィールを送ってくれとか、毎日の生活ぶりを取材したいなんていうメイルは送ってきて欲しくないなあ。ホンマに「興味深く拝見」した上でメイルを出したというなら、すでに日記に書いてあることを何で聞き直してくるんや!と言いたくなるなあ。ま、これ以上細かいことを書くと相手に迷惑がかかるので控えさせていただくけれど、私の返事はこれにておしまい。くれぐれも、「先日メイルをお送りした者ですが、ご覧いただきましたでしょうか?」などというメイルを送って来ないように願いたいものだ。

 今回の取材申し込みだけに限ったことではないが、新聞とか雑誌によるHP開設者への取材は、どうも「省力型」が多いような気がしてならない。Webページへの取材はあらかじめターゲットとするHPのコンテンツを十分に読むことこそ、事件現場を足で稼いで取材することと同等の意味をもつ。それを怠って、海面に撒き餌をいっぱいばらまいておいて、つり上がった魚だけを取材しようというのでは正確な現状は把握できない。ま、売れることだけを目的に、低レベルの好奇心をそそるだけの記事を書くというなら話は別ですが...。
【思ったこと(2)】
990712(月)[心理]ルール支配行動から生きがいを考える(1)

 小豆島の長谷川ゼミ合宿の発表の中で、「ルール支配行動」と関連づけながら日常生活行動の整備や生きがい問題を考えようとするものが複数見受けられた。これを機会に、ルール支配行動について私なりの考えをまとめておきたいと思う。もっとも、この話題は後期の外書講読の教材としても取り上げるので、連載が完結するのは来年の2月ぐらいになる予定。

 私が教養教育の教科書で使っている『行動分析学入門』(杉山他、産業図書)によれば、ルール支配行動というのは
行動随伴性を記述したタクトが生み出すタクトが生み出す言語刺激(=「ルール」)によって制御される行動
として定義されている。また文中の「タクト」とは
物や出来事、あるいはその特徴が弁別刺激で、般性強化により形成・維持されている弁別刺激と反応との間に1対1対応のない言語行動
と定義されている。簡単に言えば、「〜すれば〜という結果が生じる(=基本随伴性)」とか「〜しなければ〜という結果が生じるが、〜すれば現状維持(=阻止の随伴性)」というような随伴性が何らかの形で言語的に記述され、それに従うような行動が形成、維持されている時にそれを「ルール支配行動」と呼ぶわけだ。

 高度に発達した文明社会の中で生活する人間の場合、直後の結果によって維持・強化される行動よりもルール支配行動として維持される行動のほうが圧倒的な比率を占めるようになる。「この仕事をすれば月末に賃金をまとめて支払う」、「受験勉強をすれば1年後に大学に入れる」、「お金を貯めて10年後にマイホームを手に入れる」、さらには「善行を尽くせば天国に行かれる」というように「天国」という死後の仮想的な結果で維持される行動のように、世の中にはルール支配的な行動が満ちあふれていると言ってよいだろう。

 ルール支配行動は「行動随伴性の言語的記述」によって制御されるというが、この場合の言語的記述は、明文化されたものばかりでなく、絵や図による記述、さらには漠然としたイメージのようなものも含まれるように私は思う。ただ、それが何を媒体としているかはあまり重要ではない。大切なのは、ルールに従う行動がどのような形で維持されているのか、ルールを守った場合と守らない場合にそれぞれどういう結果が生じているのかを明らかにすることにある。

 単にルール支配行動を分類記述するだけであれば、「ルールの理解」、「ルールの認知」、「ルールへの自覚」という言葉を使っても何ら問題は生じない。しかし、ルール支配行動がどのような仕組みである時には維持・強化され、ある時はうまく遂行されないのかを明らかにしようと思ったらそういう表現では不十分だ。例えば「あなたはルールへの理解が足りない。もっと自覚しなさい!」と言っただけで、それがうまく遂行されかと言えばそんなに甘くはない。

 ルール支配行動は、従来、行動とその結果との間が時間的にかけ離れていても生じる行動を説明する概念として取り上げられることが多かったように思うが、集団生活の中での学習の伝播や伝承、個体の発達のプロセスを考えてみると、むしろ「○○に行って××をすれば△△という結果が生じる」というように、空間的に離れた場所で起こりがちな随伴性が言語を媒介として伝えられるようになったあたりに起源があるように思っている。次回は、そうした空間的な視点からルール支配を考えてみることにしたい。
【ちょっと思ったこと】
  •  小豆島のゼミ合宿の夜、部屋に戻ってからNHK教育テレビの「日本・映像の20世紀」(21:45〜22:30)と「教育トゥディ」(22:30〜23:00)を見た。忘れないうちにメモしておきたい。
     「映像の20世紀」のほうは明治以後の沖縄の話題。戦前の沖縄ではサトウキビが重要な生産物になっていたが、本土資本に安値で叩かれて苦しい生活を強いられたこと、また本土への出稼ぎの労働者が「琉球人」として差別されたこと、さらに戦後はアメリカの占領下で物が安く手に入ったために製造業が発展しなかったことなど、しばしば伝えられる沖縄戦とか米軍基地の問題とは別の側面が客観的に伝えられていたように思った。
     「教育トゥディ」のほうは岡山の公立の中高一貫校の話題。高校受験が無いことによる「ゆとり」を活かしてフィールドで自由課題に取り組む生徒たちの活動が描かれていたが、快活な笑顔が印象的だった。強いて言えば、例えばファッションについての街角インタビューに基づく研究を発展させる中で基礎的な学問(例えば質的研究法のノウハウ)をどう取り込むかというように、素朴な興味→とにかく調べてみる→る基礎教科をそれに関連させながら学ぶ、というようなステップが必要であるように思った。単に興味を満たすだけの一課題完結型の趣味的な研究に終わってほしくないものだ。
【新しく知ったこと】
【生活記録】
【今日の畑仕事】
  • トウモロコシ収穫。夜にゆでて食べたが、甘みといいみずみずしさといい、スーパーで売られているものを圧倒する美味しさがあった。ほかにトマト大3個、ミニトマトいっぱい、インゲンいっぱい、オクラ数本収穫。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】