じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] チグリジャ(チグリジア、虎斑百合)。昼間咲く一日花で夕方にはしぼんでしまう。昨年購入した球根を埋めたままにしておいたところ、今年最初の花が咲いた。


7月6日(火)


990706(火)[心理]子ども虐待の定義見直し
 各種報道によれば、厚生省は子どもへの虐待行為の定義を広げ、「外傷が残らない暴行」や「車やベビーカーなどへの放置」なども虐待に当たるとして対応するよう、全国の児童相談所長に指示したという。

 今回の定義見直しでは、親の愛情があっても、子ども自身が苦痛を感じていたり悪影響があったりする場合を問題視したという。7/6の朝日新聞記事によれば“しつけや愛のむちといった親側の論理でなく、子どもが苦痛を感じるかどうかを基準とする見解を行政が初めて打ち出した”という点で大きな意義があるとされている。

 こうした見直しの方向は子どもの人権を重視するという点で基本的に正しいとは思うが、「行動に対してどういう結果が随伴し、その後、その行動がどう変わるか」という行動随伴性の視点からとらえてみるとまだまだ不明確な点が残るように思う。

 まず「子どもが苦痛を感じるかどうか」の判断であるが、すでに何らかの問題行動がポジティブな結果(好子)の随伴で強化されているケースがあった時、子どもに全く苦痛を与えずに適切な対策がとれるかどうかと言えば、そう単純にはいかない時もあるだろう。また「子どもに苦痛を与えない」ことを絶対的基準として拡大解釈してしまうと、寝坊をしている子どもを叩き起こすのも、極端な偏食をしている子どもに他の家族と同じものを無理矢理食べさせるのも、理屈の上では「苦痛を与える」ことになりかねない。

 ここで苦痛を与えるとはどういうことか、もういちど考えてみよう。
  1. まず、行動と無関係に有害な刺激を与えること。これは教育上全く無意味であり人権上も問題がある。
  2. 行動の直後に何らかの事象を出現させることがその行動の将来の生起頻度を下げることになった場合、その事象は「嫌子」(けんし)と呼ばれる。嫌子を与えることは、苦痛を与える可能性がある。【例えば、お尻を叩いたり、叱責の言葉を浴びせるような行為。】
  3. あらかじめ何らかの事象が存在しており、行動の直後にそれを消失させることがその行動の将来の生起頻度を上げることになった場合、その事象も「嫌子」と呼ばれる。行動に先立って、嫌子を与えておくような状況を作っておくことは、やはり苦痛を与える可能性がある。【例えば、家の外の寒い所に放り出して、約束をしない限り家の中に入れないとすること。】
  4. あらかじめ何らかの事象が存在しており、行動の直後にそれを消失させることがその行動の将来の生起頻度を下げることになった場合、その事象は「好子」と呼ばれる。好子を消失させることは、苦痛を与える可能性がある。【例えば、問題行動をするとTVゲーム機を取り上げてしまうようなこと。短時間、部屋に閉じこめることもこれに当たる。】
  5. 何らかの行動が生じても無視すること。これは一般に「消去」の操作にあたる。過度の無視は苦痛を与える可能性がある。【子どもが何かしゃべってもすべて無視するような行為。】
  6. このほか、嫌子や好子の出現や消失を阻止するような随伴性も文脈によっては苦痛を与える可能性がある。
 時間が無いのでこれ以上詳しい説明は避けるが、要するに、「苦痛」と言っても、行動の前後に与えられる結果との関係のなかで、それがどういう文脈で生じているのかを検証しなければいちがいに是非は論じられないということだ。これは決して「親側の論理」を重視せよという意味ではない。明かに有害であったり外傷を伴うような苦痛はともかく、より広範囲に定義するというのであれば、行動の文脈を無視して独立的に「苦痛」を定義することはできないということを言いたいのだ。

 このほか、「死んだ人にもできることは行動ではない」という「死人テスト」の視点から見れば、子どもに何らかの物理的な作用を及ぼすような虐待行為と、何かを怠ることによって結果的に発生する虐待「行為」は明確に区別していく必要がある。「乳幼児を車に放置する」とか「子どもを家に残す」、「病気になっても病院に連れていかない」、「適切な食事を与えない」というのはいずれも、「死人テスト」をパスする行動とは言えないので、厳密に言えば虐待「行為」ではない。これらは、「乳幼児を連れて買い物をする」、「子どもを連れて外出する」、「病気になった時に病院に連れていく」、「適切に食事を与える」というような具体的な行動をどのように強化・維持させるかを問題にすべきであって、それを怠ることの結果だけを問題視しても改善にはつながりにくいように思う。
【ちょっと思ったこと】
  •  7月7日は新暦の七夕にあたる。我が家でも夕刻に竹の枝を切り取ってきたところだ。梅雨の中休みの状態が続いているため今年は全国的に晴れるところが多いとか。また、今年の場合は月齢23.7(21時現在)となるため月明かりの影響が全くない。天の川を見るには絶好のコンディションと言ってよいだろう。

     七夕のもう1つの楽しみ方は、夏の大三角形を眺めながら、近くを通過するイリジウム衛星の閃光を観察することだ。イリジウムの閃光は、衛星の姿勢と太陽光線の角度が一定の条件を満たした時、数十キロ程度の帯状の地域内で観察される。太陽光線の角度や向きは季節や緯度によって異なるので、それに応じて、閃光の見えやすい方角・高度や時刻が変わってくる。この季節は、岡山の場合、夜の21時20分〜40分頃に、白鳥座のすぐ下のあたりを通過する衛星が閃光を発するチャンスが多くなっている。7/7の場合は21時38分すぎにイリジウム68号(マイナス1等級)。7/10の21時29分すぎにはイリジウム67号がマイナス8等級の明るさを放つ。この季節、ほかには22時〜22時20分前後に西南西の空低いところで閃光を放つチャンスが多い(7/7であれば22時17分に高度15度方位245度にマイナス6等級)。

    ※イリジウム関連の情報は、三島さん怪鳥さんのサイトにあります。怪鳥さんが作成したこちらの地図をクリックすると、全国どの地点に居てもおおまかな出現情報を得ることができます。
【新しく知ったこと】
【生活記録】
  • 夕食後の散歩の帰り、白鳥座の下を北から南に移動するイリジウム65号を眺めた。明るさはマイナス7等級。高度29度、方位61度。
  • NHK岡山の「きびきびワイド」で脳茸の仲間と時計台の写真を紹介してもらった。通算3度目。
【今日の畑作業】
  • キュウリ2本、ミニトマトを収穫。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】