じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

5月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] アパート下の花壇。北向きだが朝夕ちょっぴり日が当たる。かえって涼しいのでパンジーなどが長持ちしているようだ。手前はアイスランドポピー、ほかに、姫金魚草(リナリア)、ネメシア、バーベナなどが咲いている。


5月14日(金)

【思ったこと】
990514(金)[心理]犯行の動機とは何だろうか

 和歌山市園部で起こったカレー毒物混入事件で13日、和歌山地裁で初公判が行われたという。この事件については、まず亡くなられた方に謹んで哀悼の意を表したいと思う。また現時点において、被告が有罪であると決めつけているわけではない点についてもお断りしておく。

 さて、13日夜のTVニュースやや14日朝の新聞報道によると、検察側の冒頭陳述では被告の動機は特定されず、ヒ素を使うことへの「慣れ」や、川にゴミを捨てたことへの付近住民からの批判、町内会夏祭り準備段階での“主婦らの対応ぶりは自分をあからさまに疎外するものと受け止めて、反感を抱き激高”したことが複合的に犯罪を引き起こしたような記述をとっていおり、朝日新聞(大阪本社)の一面でも「検察、動機特定せず」という見出しがつけられていた。

 今回に限らず、犯罪事件では多くの人々が犯行の動機に関心を寄せる。しかし、1998年11月20日の日記でふれたように、1つの犯行が1つの原因だけで生じるということはむしろ稀で、そこには犯行を可能にする環境側の諸要因の積み重ね、犯行を余儀なくさせられた過去の間接諸要因が複雑に絡み合っている。その中で「動機」がどのぐらいの重みを持つのか同定することは容易ではない。まして、犯行というのはすでに起こってしまった1回限りの行動であるから、再現させることも実験で確認することもできない。裁判の過程で議論の対象となる「動機」と、心理学で研究対象としている「動機」とはかなり異なった性格を有するものなのだろう。

 犯行の動機が純粋に科学的に同定できないとすると、それに代わる妥当性の基準はどこに置くべきなのだろうか。おそらくそれは一般市民が素朴に受け入れる妥当性であって「その状況に自分が置かれたら、同じことをするかもしれない」という蓋然性がどれだけ高いかにかかっているように思う。

 たとえば、保険金目当という状況証拠が揃っている殺人事件の場合、一般市民は「その人を殺して多額の保険金が入り、しかも証拠が残らないのなら、ひょっとして私も同じことをしたかもしれない」と納得してしまう。また被害者が犯人を日頃から脅迫していた場合、一般市民は「その人を殺さない限りずっと脅かし続けられるような状況であったなら、ひょっとして私も同じことをしたかもしれない」と納得する。本当の犯行動機が別にあったとしても、一般にはそのような形で動機が明瞭な犯罪であると受け止められてしまうだろう。
もっとも一般市民の全員が「私も同じことをしてしまうだろう」と納得してしまう場合は、おそらく犯罪にはならない。例えば正当防衛のように「その人を殺さなければ私が逆に殺される」が動機として認定された場合は罪に問われない。
 犯行の動機が明瞭でない場合、一般市民は「なぜそんなことをしたのか分からない」と不安になってしまう。本当の原因がなんであれ、何かしら「そうなったらわたしでも同じことをするかもしれない」という要因が見つかればそれが原因であると見なしてしまう。犯人が自分の口から別の動機を主張しても、一般に受け入れられるような妥当性が無ければ虚偽であると片づけられてしまう。上にも述べたように事件の原因は事後的に分析することしかできないから、裁判官であっても、本当の原因よりも「みんなが納得する原因」をもって犯行動機と決めつけてしまう可能性が高い。

 「そうなったらわたしでも同じことをするかもしれない」という要因がどうしても見つからない時は「犯人の特殊な性格」が原因であると判断されてしまう。もっとも「特殊な性格」に精神異常や心神耗弱状態が含まれる場合は刑事責任を問わない可能性が生まれる。このあたりも科学的な行動原因の分析とは異なる世界の判断であるように思える。

 以上を私なりにまとめてみると、一般的な犯罪というのは、まず法令違反と被害者があったときに成立するものだ。その上で考慮される「犯行動機」が犯行の真の行動原因になっているかどうかは科学的には検証できない。「同じ状況に置かれたら私でもそうするだろう」という度合いが高い場合は情状酌量の余地が高くなる一方、逆に「同じ状況に置かれても私は決してそうしないだろう」という度合いがあまりにも高いものも「異常」として考慮される。社会的に最も重い罪として受け止められるのはその中間であり、「それをしなくても追いつめられる状況が無く、かつそれをしたら得をするような状況」があった時がもっとも悪質な犯行動機があったものと見なされているように思う。いずれも科学的分析による判断ではなく、定められた法令との整合性、あるいはその社会内部の一般的了解との一致に基づいて判断されるもののようだ。
【ちょっと思ったこと】
  •  大阪河内長野市で1994年に起こった小学生2名の交通死亡事故をめぐり、大阪地検は13日、「子供の飛び出しが原因」であるとして、改めて男性を不起訴処分にしたという。この事件をめぐっては、民事訴訟では「並んで歩いていた二人をはねた」と証拠認定した判決が確定しており、今回の再捜査も、検察審査会の不起訴不当の議決に基づくものであった。

     これとは別の東京で起こった小学生の交通死亡事故では、東京地検が昨年11月26日、当初の不起訴処分が誤りだったと認めたうえで東京地裁に起訴した事例がある【昨年5/14の日記及びその翌日に取り上げたことがあった。犠牲者の両親が開設しているページはこちら】。

     この種の事件あるいは汚職や横領の事件などを含めてたまに疑問に思うのは、検察当局が本来の権限を超えて予備裁判所のような判断をしていることだ。よくあるのは、「容疑者はすでに社会的な制裁を受けており本人も十分反省している」というような理由で起訴を見送るケース。これは情状酌量であって本来裁判官が有罪を認定したうえで判断すべきことだと思う。今度の場合も、飛び出しとは認定できない証拠があり、かつスピードの出しすぎや前方不注意の責任もありうるのに、そういう疑念について裁判所で事実関係を公正に争う機会を自ら放棄してしまっている。もちろん運転手側にも家庭はあるだろうし人権にも配慮しなければならないと思うが、「疑わしきは罰せず」は裁判所側が行うべきこと、検察の仕事は「疑わしきが否定できない時は起訴」が原則であるように思っていたのだが、私の思い違いだろうか。
【新しく知ったこと】
【生活記録】
【5LDKKG作業】
  • 多忙につき一度も立ち寄れず。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
  • 1997年4月に三重県上野市の河川敷で起こった殺人・死体損壊・死体遺棄事件の控訴審判決で13日、名古屋高裁は、懲役12年の一審判決を破棄して決闘罪を適用し、改めて懲役10年を言い渡した。