じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
チルランドシア。これも行きつけの花屋で190円の半額品として購入。ピンク色の苞の先から紫色の花が咲くはずであるが、さすが半額品だけあって花のほうはもう終わってしまっているようだ。エアープランツとして売られている植物の中にも同じ名前のついているものがあったと思う。 |
【思ったこと】
990218(木)[心理]価値の起源と創出について思うこと(4)所有するとはどういうことか 昨日の日記の続き。今回は「所有」について考えてみたい。「所有」については、1998年3月3日と3月8日の日記で、「言葉と文化、どっちが先か」という素人的な随想の一環として取り上げたことがあるが、ここではより行動分析学的な見地からもういちど考え直してみたい。 まず、『新明解』(第五版)で「所有」の意味を調べてみると
たとえば、どんなにお金を出しても、太陽の黒点を所有することはできない。それを使用することも、処分することも、そこから収益を得ることもできないからである。 同様に、空気、海水、日光のように無尽蔵にあるものは普通は所有の対象とはならない。他人と自分との権利を差別化する必要が生じないからだ。 同じ宇宙にあるものでも、収益の対象になるならば不完全ながら所有することができる。もし月のクレーターとか小惑星に名前をつけたり改名したりする権利が売買されるようになれば、そこに限定的な所有権が発生するだろう。 要するに所有とは、個々人あるいは集団が特定の物に関わりをもつ機会を占有するための約束事であって、本質的な価値には結びつかない。昨年3月3日の日記で述べたように、誰でも平等に使えるようにしても、資源が乏しければ暴力を伴った衝突が起きる。関わり方の差別化を社会的に保証する約束事を作ればこうした無駄な争いが回避できる。こうした有用性のあることが、所有を前提とした行動を社会的に保護する体制をつくりあげたものと思う。 こうして考えてみると、所有というのは絶対的な真理でも生まれながらに付与された権利でもない。この視点から、所有にまつわる固定観念を見直してみる必要があるように思う。2つほど見直しの事例をあげてみよう。
「所有」と似た概念に「借用」がある。この違いは、結局のところ対象との関わりの機会についての制約の違い、収益や処分に関する行動の制約の違い、そしてコストに帰着されるように思う。具体的に、持ち家と借家、自家用車とレンタカー、購入した本と図書館の本の違いを考えてみればよいだろう。 政治が安定し、種々の権利が保護され、契約がきっちりと履行される社会になればなるほど、「所有」と「借用」のあいだの質的な違いは消え、単なる量的な違いだけが比較されるようになってくるように思う。また、バブル崩壊後は、土地や家を所有することが必ずしも財産の保全につながらない現象も起こるようになってきた。こうした状況をふまえるならば、「所有」に対する極端な執着を避けることも、自分をとりまく価値を見直す大きな材料になるかと思う。上記のうち、持ち家と借家の比較については2月10日の日記で私なりの考えを述べている。参考にしていただければ幸いです。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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