じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] バレンタインの花(だそうだ)。妻制作。私が食べるチョコレートも刺し込んである。

2月5日(金)

【思ったこと】
990205(金)[一般]節分の日の太巻きその後

 2/3の日記で節分の日に恵方(年によって異なる)のほうを向いて太巻き(巻き寿司)を食べながら願い事をすると....というような「風習」について書いたが、その後、古川さんから大阪方面について情報をいただいた。それによると、
  • 節分の日にイワシを食べる習慣は昔からあった。
  • 巻寿司については、のり屋さんが商売で考え出したという説あり。
 古川さんも言及しておられたが、となると、バレンタインデーのチョコレート、ホワイトデー、クリスマスケーキなどと類似起源の「風習」ということになる。
 なお、岡山コープで売られていた「太巻き」というのはまさしく太い海苔巻きのことだが、普通の巻き寿司が2cmぐらいの厚さで輪切りにして食べるのに対して、こちらのは、せいぜい2つに切るだけで丸ごと口に入れるというところがちょっと違う。のり屋さんの「陰謀」説というのももっともらしいけれど、ホントに儲かるのは、コンビニやスーパー向けに寿司を作っている惣菜屋さんではないだろうか。

 おなじ寿司でも、雛祭りに食べるチラシ寿司のほうは全国的に定着していたように思ったが...。季節の行事に合わせて食べるものとして我が家で定着しているのは、元旦の雑煮、七草粥、バレンタインのチョコレート、いま述べた雛祭りのチラシ寿司、お彼岸のおはぎ、土用のウナギ(←これは蘭学者の発案だったかな)、十五夜の月見団子、クリスマスケーキ、大晦日のそば、と言ったところだろうか。けっこうあるもんですなあ。

<2/6追記>古川さんからいただいた情報の詳細は、こちらにあります。
【思ったこと(2)】
990205(金)[一般]吉野川可動堰住民投票から民主主義について考える

 臨時徳島市議会の特別委員会で5日、吉野川可動堰計画の是非をと言う住民投票条例案が賛成4、反対7で否決されたという。この条例案を求める署名の数は有権者の49%に達していたというから、委員会も思い切ったことをするものだ。

 可動堰自体については何も勉強していないので私には判断できないが、この案件を否決した委員たちのロジックの中に「住民投票は住民に責任を押し付けることになる。私たちにお任せを」、「住民感情がもつれることがあってはならない」、「住民の生命、財産を守るのは住民投票以前に行政の責任だ」(いずれも2/6朝日新聞記事)というのがあったというのはちょっと気になる。これは、一般市民には行政に責任を持てるような判断能力が無いという意味にもとれ、民主主義の根幹に関わる発言であるとも言える。

 現代の複雑な社会にあっては、高度の専門的知識無くしては政策の立案も遂行もできないことは確かだが、民主主義社会はどんなに分かりにくい政策であっても住民に理解と納得を求めるプロセスを必要とする。もちろん議会や委員会の審議も民主主義のプロセスの1つであるから、多数の署名を議会が拒否するということが直ちに民主主義の否定につながるというものではないが、ここはひとつ、可動堰の必要性について十分な理論的根拠があるのであれば(公共事業による利益誘導ではなく、防災上の必然性があるというのであれば)、住民投票で推進賛成が多数を占めるように十分に理解を求める選択肢を選んでもよかったのではないかと思う。

 もっとも、私個人は、この日記でも何度か書いているように、民主主義の意志決定システムが、学術的にみて最適の決定を下す能力をもっているとは考えていない。民主主義、特に現行の議会制民主主義というのはあくまで、合意を形成するための最適のシステム、もう少し乱暴な言い方をすれば、文句を言わせず物理的衝突を回避するための最適のシステムとして考え出された人類の知恵であると考えている。住民投票に委ねるというのは、委員会より住民のほうが正しい判断ができるという意味ではなくて、合意のプロセスとして直接投票制度のようなものをもっと重視してもよいのではないかという意味だ。

 純粋に科学的な議論であるならば、民主主義のルールに依拠しなくても論理的に筋道をたてて自らの考えを主張し相手方を論駁していけばよい。ところが、利害や価値観が対立する問題の場合には、根拠をいくらあげても、相手方の矛盾点をいくら指摘しても、最終的な一致に至らない場合がある。そこで「民主主義的なプロセスを経て決定されたことには不満があっても従おう」という大前提をまず合意させておいて、個別的な問題で生じる不満を押さえ込もうとするわけだ。このレベルでは、「民主的な決定に従う」というロジックは、基本的には「王様の命令だからしょうがない」、「お上の意志に楯突いてはいけない」あるいは「神の意志(じっさいは教会の決定)に従おう」というものと変わりない。

 民主主義のプロセスを経た決定が「賢い王様」の決定よりすぐれた判断を下せるようになるためには、ほんらいは、住民が常に政治に関心を示し、ある程度専門的な内容についても知識を身につけ、自己の利益よりも国全体の将来を重視する視点から、投票に参加していく姿勢が求められる。それが面倒だというならば、賢い王様が各分野の専門家を集めて審議会をつくり、有能な家来にそれを遂行させ、かつその決定や遂行を評価する独立機関によって、人事の組み替えを行っていったほうが国全体が栄える可能性だってある。

 では現在の日本はどうかと言えば、有権者が政治にそれほど関心を示しているとは思えないところもある。にも関わらず民主主義がそれなりに機能しているのは何故か。1つには、競争社会の中で勝ち上がるということは、ある程度理論的な正しさを反映しており、結果的に、競争社会の成功者の意志を反映するような政府は妥当な政策を遂行しやすいという論理がなりたつためであろう。もっともこれだけでは、個人の利益を最大限に追求し既得の権益を保持しようという勢力が長期間にわたって政治を支配する恐れが出てくる。これにブレーキをかけるのが、平等や福祉を訴える「分かりやすい理屈」ということになるのだろう。上の主張と多少矛盾するけれど、住民の多数が無関心であってもそのバランスがとれている限りは、その国の経済はそこそこ発展し、かつ独裁政権の誕生を阻むしくみが保持されていくものと思う。
【新しく知ったこと】
【生活記録】
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】