じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ロウバイ。ほんらい正月に咲く花なのかどうか分からないが、ここ北九州ではすでに開花。開いた花よりも蕾の状態のほうが美しいという見方もある。

1月3日(日)

【思ったこと】
990103(日)[一般]駅伝はよかったが元旦の社説は...

 1/2と1/3の両日に行われた箱根駅伝の実況をほんのちょっと聞いた。沿道には50万人近い人出(1/2のデータ)というから大変な人気だ。

 この駅伝はご存じのように読売新聞社後援となっている。新年早々にこれだけ多くの沿道の人々が讀賣の旗を振って応援していることを考えると、テレビ中継が行われるようになった今では、毎日や朝日が後援する高校野球以上の宣伝効果が期待できるようにも思える。

 さて駅伝をここまで国民的行事に盛り上げた読売新聞社の功績は称えるとしても、今年の元旦の社説には、ちょっと首を傾げたくなる記述があった。

 今年の讀賣新聞の社説は、「戦後民主主義」三つの大罪として、「国家を敵視すし、義務を怠って権利だけを主張する無責任な風潮を押しつけた」、「機会の公平のみならず結果の平等を追求する平等至上主義」、「社会主義国は平和勢力で米国は戦争勢力だという偏見に立った一国平和主義」をかかげ、これらが、日本が活力を失い迷走を重ねている根源的な要因であるとし、それを弊害と感じずに当たり前と思う人々が少なくないことを「偏向したマインドコントロール状態」と呼びつけ、その克服が日本再活性化のうえで急務だとしている。

 社説の後半部分には納得できる点もあるし、大罪の2番目の「結果の平等」云々部分には行動分析学的な発想もあって評価できるけれども、現在の日本経済の混乱の責任をあたかも左翼勢力やそれに同調する「進歩的文化人」に押しつけるような印象を与える記述には首を傾げたくなる。
 もし、根源的な要因をそこに求めるのであれば、高度経済成長、そのひずみの是正、バブルとその崩壊もすべて左翼勢力と「進歩的文化人」の影響によって引き起こされたことになってしまう。
 戦後の日本が独裁色の強い社会主義国であって言論や情報が統制されて国民の多くがマインドコントロールされていたというならばその主張にも納得がいくけれど、戦後の日本は殆どの時代が自民党政権ではなかったのか。讀賣新聞はいちばん売れているのではなかったのか。左翼勢力の影響がこの社説にあるほど強大なものであったならば、社会主義とまではいかなくても、社会民主主義政権がとっくに誕生していたはずである。

 この社説はもっぱら、戦後の民主主義への批判を出発点として21世紀への道筋を展望しているが、「国家」、「平等」、「安全保障」、「憲法」を真剣に論じるというのであれば、戦後だけの総括では不十分。江戸時代までさかのぼれとは言わないが、戦前について何も語らずに戦後の反省だけに立脚して21世紀を展望しようというのは非常に狭く危険なものの見方であるように思う。

 第二に、「マインドコントロール状態」などという言葉は、反対者のロジックを頭ごなしに否定する攻撃的な表現であって、大新聞が社説で軽々しく使う言葉ではない。マインドコントロールについては種々の立場があり必ずしも明確な判別基準は確立していないが、少なくとも隔離されたもとで特定立場の主張だけを一方的に流し込むというような情報操作が行われなければマインドコントロールされていたとは言えない。讀賣新聞が弾圧され自社の主張が国民大衆に伝えられない状況にあったならそう言ってもよかろう。でなければ、ここは、相手のせいにせず、「対立する人々の考えを変えうるだけの説得力のある反論を提示できなかった」との自己反省にとどめるべきであろう。

 第三に、社説の後半では英国のサッチャー路線を高く評価しているが、EU加盟の大多数の国で社会民主主義政党が与党となっていることには何もふれられていない。高齢化・少子化がすすむなかで、このEUの流れまでも「マインドコントロール」のせいにしてしまうのか、それとも日本人はヨーロッパ人とは違うというのか、元旦の社説を拝見した限りでは納得のいく答えが示されていないように思えた。

 最後に「機会の公平のみならず結果の平等を追求する、平等至上主義とも言える誤った観念」という指摘や「成功者を抑え込むことは、援助を必要とする者を罰するに等しい」というサッチャー氏の発言の引用について。平等至上主義には私も反対だが、「結果」や「成功」がどのような努力によってもたらされたものであるのかについては、もう少し細かく見ていく必要があるように思う。
 ひとくちに金持ちと言っても、「努力して成功した人々」と親の資産を機械的に受け継いで「働かなくても贅沢ができる」人々が居ることは事実だ。社説で主張されている「高すぎる相続税」とか「累進税率」の改革が前者の人々の努力を正当に評価する結果を与えることは確かであるが、後者の人々も同じように優遇してしまう結果を招くようであれば賛成できない。
 さらに、「成功者」でない人々についてももっと細かく見ていく必要がある。成功者でない人々は決して努力していない人々ばかりではない。改善されてきたとは言え、農業政策の変更や環境破壊によっ「働けども働けども楽にならない」人々が依然として存在していることは事実であるし、産業労働社会にあっては、企業の倒産のように、一個人がいくら努力しても結果が報われないケースもあるだろう。

 結果として得られたものをすべて平等に再分配してしまうことは誤りであるが、だからといって、「大きな結果=成功者」、「小さな結果=失敗者」とは必ずしもならない。生じた結果ではなく、それに至るプロセスが評価されるようなシステム、つまり「行動し、それに応じて結果を得る」システムを如何に保障していくかを検討していくことが大切であろうと思う。

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【新しく知ったこと】
【生活記録】
  • 義父母や姪たちを乗せて、英彦山(ひこさん)麓の温泉(しゃくなげ荘)に。途中、「薮」という名前の有名なうどん屋で昼食。評判通りのおいしさであったが、隣の席にやってきた男性のタバコの煙がまともにこちらに流れてきて迷惑千万。食事の席での喫煙は禁煙の張り紙がなくても謹んでもらいたいものである。もっとも、このうどん屋さんの入口にはタバコの自販機が置かれていた。どうぞ、うどんを食べながらタバコを吸ってくださいということか。まだまだ非喫煙者への配慮が足りないように思った。そう言えば、英彦山温泉の露天風呂の中までタバコをくわえてきたおじさんが居た。灰の始末はどうするつもりだったのか見届ければよかった。
【夕食後の夫婦の散歩】------104日目(妻は98日目)[娘は5日、息子は4日]。ポケット・ピカチューで7092歩----
 妻が通っていた八○高校まで往復。通学路横の家並みは20数年前と殆ど変わっていないという。確かに私自身にとっても、子供時代を懐かしめる家のつくりであった。この点、東京ではそうはいかない。私自身も10年以上前に、自分の通った高校(←そういや駅伝に出場した早大の選手の中に後輩が居たような)までの通学路を辿ってみたことがあるが、あまりにも景色が変わりすぎていて道に迷ってたどり着くことができなかった。
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】