渡部昇一氏の講演

(11/26高松市にて。ビデオ録画)を拝聴して思ったこと
 今回の渡部氏の講演は、氏が御著書で紹介しておられる幸田露伴の思想に基づくものであり、「運のいい人、悪い人」とか「惜福、分福、植福」について話題が中心であった。
  • 運のいい人は、マズイことがあった時は自分のせいに、うまく言った時は運のせいにする。運の悪い人は、マズイことがあった時には人のせいにし、良いことがあった時は自分のせいにしている。
  • 悪いことを人のせいにしない。良い時は運と思え。
  • 「惜福、分福、植福」が大切。
  • 遊びは面白いけれどすぐに飽きが来る。これに対して仕事は飽きることはない。
  • 達成感は仕事からしか得られない。
というような内容。

 このうち最初の「運」というのは、行動分析学的に言えば「好子が出現する機会条件」のようなものを言うのだろう。うまくいった時とマズかった時の原因帰属といわゆる達成動機の問題は社会心理学でも論じられているようだが、同じようなことを幸田露伴が言ったとは凄い。ただ、失敗したらみんな周囲のせいにして、うまく行った時は自分の手柄にするという大言壮語型のきょうぢゅなんかもたまにいるようだが、運の悪い人かもしれないものの、このほうが少なくとも受けるストレスを最小限にくい止めているようにも思う。

 「惜福、分福、植福」については、今回の講演だけでは理解できなかった。ただ、もし私流に「行動に対して好子が出現するための機会条件」を福であると考えるならば、単に物を大切にしたり分け与えたりしても「惜福」や「分福」にはならない。元となる御著書でも拝読しない限りはこれ以上のことは言えない。

 「飽き」を基準とする遊びと仕事の区別については、たぶんそうかもしれないけれど、あくまで結果論であって仕事選びの決め手にはなるまい。これも私流の解釈になってしまうけれど、飽きが来るかどうかというのは、結局、どういうタイプの結果がどういうかたちで随伴しているかという区別になってしまうように思う。
 たとえば、星の観察は飽きるかどうかを考えてみる。毎晩ただ漫然と星を眺めているのであれば、いずれ飽きてしまうかもしれない。しかし天文誌を買ったりネットを通じて毎晩の見所についての情報を得れば、流星群や彗星を眺めるチャンスがそれだけ広がる。さらに望遠鏡を使って天体写真を撮るようになり、そこで見事な写真が撮れるという結果が随伴するようになればもはや飽きることはあるまい。
 釣りや園芸の趣味も同様で、自分の技に相応の結果が随伴する限りは飽きることは無い。

 要するに、ある行動が飽きるかどうかは結果の随伴のしかたによって決まってくるものであり、そのプロセスには「たまたまうまくできた」というような偶発的な出来事が影響を及ぼす場合もある。一個人にとって何が飽きるもので何が飽きないのかということは、事前には何も分からない。行動を始めた後でも、随伴の仕方によって相当の流動性があるように思う。

 ところで、失礼ながら、渡部氏も次第にお年を召していかれるだろうが、高齢者の生きがい問題についてはどう考えておられるのだろうか。私自身は、12/4の日記でふれたように、「生涯現役社会」が基本であり、「悠々自適の老後」など幻想にすぎないと考えている。現職から退いたら、一日中TVゲームをするとか草花など育ててのんびりと過ごすなんていう計画も無いわけではないが、寿命に近づいてくればくるほど、死ぬ前にこれだけは知っておきたい、これだけは読んでおこうという焦りが出てきて、TVゲームどころでは無くなってしまいそうな気もする。
 もっとも、いろいろと思索をめぐらしたあげく、けっきょく、物事をあれやこれや考えるよりも、自然とふれあい素朴な喜びを見つけることのほうが遙かに価値があると結論できれば、書を捨てて悠々自適生活に入ることができるかもしれないが...。

 そういえば、98年度の国民生活白書「中年--その不安と希望」を提出したのは堺屋太一経済企画庁長官であったが、gooで検索してみると、『競争の原理』(堺屋太一・渡部 昇一著、致知出版社 定価1200円)なんていう共著もあることが分かった。「競争がなければ進歩はない。進歩がなければ生き残れない」という思想は、この国民生活白書にも反映しているのだろうか。もう少し調べてみたいと思う。

※gooでは、上記のほか渡部氏の過去の発言を批判するサイトも見つかった。また、渡部氏の著作を推薦しているサイトには、なぜか「幸○の科学」系の書籍が一緒にあげられている場合が多いように見えた。気のせいだろうか。

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