じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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種名不明。昨年秋にホームセンター「タイム」で買った鉢植えのものを地面に移したところ、今年も綺麗に花が咲いた。タイムでは今年も同じ花を売っていた。露地植えも可能で、高さ2mぐらいになるとか書いてあったが肝心の名前を忘れてしまった。どなたかお教えいただければ幸いです。 |
【思ったこと】
981113(金)[心理]「死人テスト」からの発想と具体的であること(1) 「死人テスト」とは行動分析学で行動を定義する時の基準として重視されているものである。この概念を初めて聞いた時は、単なる操作的、便宜的な判断基準ぐらいに思っていたが、実はそうではなく、自分の行動や社会一般の諸々の行動現象をとらえる上で非常に有用かつ欠くことのできない概念であることが判ってきた。 まず、死人テストとは何かと言えば、 死人でもできることは行動ではないというきわめて単純明快なもの。この概念は『行動分析学入門』(杉山ほか、産業図書、1998)に紹介されているが、もとはOgden Lindsleyが1965年に提唱したものであるという。 この基準の重要な点は、「受身形」、「状態」、「否定形」は行動とは見なさないことだ。たとえば「学校に行かない」とか「日記を書かない」という否定形は、死人でもできるので行動とは言えない(=夜中に突然死した学生は学校に行かないし、日記も書かない)。「なぐられる」、「お金を盗まれる」という受身形も同様に行動ではない(=死んだ人でもなぐられるし、そのポケットからお金をとられることもある)。 では、「学校に行かない」ことは話題にしないのかと言えば、そうではない。あくまで「学校に行く」行動が起こるか起こらないのかを問題にせよ、というのだ。同様に「日記を書かない」行動があるのではなくて、あくまで「日記を書く」という行動がなぜ起こらないのかを問題にする。「なぐられる」行動ではなくて、「逃げる」、「防御する」あるいは「警察に通報する」といった行動がなぜ起こらないのか、「盗まれる」行動ではなくて、泥棒やスリからお金を守るための具体的な警戒行動に不備は無かったのかを考えるのだ。 この違いが端的に現れるのが遅刻に対する対処法である。たとえば、8時半になったら校門を閉めるというような対処は、遅刻に罰を与える対処法、つまり定刻に間に合わないという「行動」を制御しようという対処法である。ところが「死人テスト」によれば、定刻に間に合わないことは死人でもできるから行動ではない。あくまで「定刻に間に合うように通学・通勤する」ことが行動であると考える。となれば、罰を与えて改善するのではなくて、「間に合うようにする」ために具体的にどういう行動をとればよいのか(たとえば早起きする、時計をきっちり確認する、お化粧を短時間で終わらせる、...)を考え、それを強化する形で改善をはかることになる。 ま、言ってみれば、「死人テスト」からの発想とは、人間を、外界に対して能動的・具体的に働きかける存在としてとらえていこうという見方ということになるだろう。不定期連載で続く。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【夕食後の夫婦の散歩】------55日目(妻は53日)。ピカチュウ万歩計で4482歩。----
妻は19時前からお出かけ。子どもたちと夕食をとったあと、一人で散歩。研究室に財布入りのウェストポーチを忘れたので取りに。帰りがけに100円均一ショップに寄って低脂肪乳とミカンを買う。 |
【生活記録】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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