じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 時計台前の並木道の紅葉見頃に。

昨日から当日朝の日記

11月6日(金)

【思ったこと】
981106(金)[日記]いつ、どこから、どこを読まれているか(2)
[Image]  昨日の続き。Ultra Rankingの10月集計分のうち、「いつ」、「どこを」読まれているのかをグラフ化してみた。まず、左の図にあるように、私のHPのばあいは、昼間のアクセスが圧倒的に多い。最初のピークは、毎日の日記をアップする8時すぎ(図中、青い矢印で表示)から昼休みのあたり。夜間は半分に落ちるが、23時台から翌日の午前0時台にもういちどピークがある。基本的には「昼型」のサイトと言ってよいだろう。

 もうひとつ、どこを読まれているか。これは下の図2をクリックして見ていただきたい。10月中、調査対象のページには総計15,725、一日あたり507、接続ホスト数は4681であったという。
 少々意外であったのは、最新の日記本文が37.4%と意外に少なく、おまけ的に書いているつもりの日記読み日記(★日記の感想)が19.0%、それほど更新頻度の多くない「血液型性格判断資料集」が15.9%に達していたことであった。ということは、ジャストネット上に開設したこのHPは、最新の日記5割、日記読みで3割、血液型性格判断で2割というアクセス構成を成しているということになる。
 ただ、以上のデータはあくまで、ウルトラランキングのバナーを貼り付けたページのみについての集計であり、たとえば前々日以前の日記がどれだけ読まれているのか、日替わりの写真がどれだけ見られているのかは調査対象外となっている。このうち、特に日記の過去ログなどは、どの程度読んでもらえているのかぜひ知りたいところだ。誰も読んでくれていなければ、わざわざ全部をサーバに残しておく必要はない。必要に応じて、言及する必要のある時だけ再アップすればよいのだ。
 ということもあって、11月以降の日記過去ログと日替わり写真のページにもバナーを貼り付けてみることにした。この分析結果は12月上旬に報告する予定である。
図2はこちら
【思ったこと(2)】
981106(金)[一般]縁故採用がイケナイ理由
 和歌山市職員採用試験で、“市長が選考から採用、任命までの全権を握る仕組みになっていたことが、不正採用の温床になっていた”[11/7朝日]と指摘されている。私の教室でも公務員をめざす学生が多いが、せっかく努力して試験勉強をしても、結果的に縁故採用のとばっちりで落とされるようでは気勢もそがれるというものだ。

 しかしその一方で、市長は選挙で選ばれたことによって市民を代表しているのだから採用の最終決定権を持ってもよいではないかという議論も一方で出てくるかもしれない。たぶん形式論ではその是非を論じることができないと思われる。

 では、なぜ縁故採用はいけないのか。結局は、縁故採用を認めるようなシステムがどういう行動を強化するのか、という視点からの是非を論じる他はない。もし縁故採用がまかりとおれば、志望者は地道に公務員になるための勉強をするより、地元の有力者に金品を送ったり選挙運動に協力することに専念したほうが得だということになる。結果的に、公務員にふさわしい能力や人格をそなえた候補者が排除され、市民全体が行政サービス上の不利益を受けることになる。要するに、縁故採用が望ましくないというのは、そのシステムが公務員をめざすための適切な行動を強化しないからであって、公正さ公平さとは別の次元の議論であるように私は思う。

 民間企業では、おそらく自治体以上に縁故採用がまかり通っているものと思われる。ただ、企業の場合には常に競争原理が働いているので、縁故採用ばかりしていたのではその企業に真に必要な人材を得ることができなくなり、結果的に生き残りが難しくなる。それゆえ、常に優秀な人材を求める宿命を背負っているとも言える。

 ここで急に話題が変わるけれど、大学の推薦入試制度などはどうなんだろうか。あまり無責任な発言はできないけれど、率直なところ、短時間の面接試験なんぞで、合格者と不合格者を振り分けることなどできっこないと思っている。面接試験でできそうなことは、筆記試験や内申書だけでは検出できないような不適格者(←ただし、何が不適格かというのは大いに議論になるところであるが)を検出することだけである。適格者をランク付けして、上位だけを合格させるなんてできっこない。志望動機なんていくらでも作文できるし、人格で選ぶとか言ったって、演技の上手な人が得をするだけのことだ。
 ただ、推薦入学システムは、縁故入学ができないようなチェック機能を備えている限りにおいては、受け入れ側としても社会的にも有用である可能性がある。まず、少子化が進むなかで優秀な志願者を囲い込めるというメリットがある。定員割れして補欠合格者を多数入学させるよりは、最初から第一志望でその大学に魅力を感じている受験生を合格させたほうが入学後の教えがいもあるというものだ。それと、面接試験で「人物を評価する」とうたっておけば、(そんな評価ができないという意味で)それがウソであっても、受験生は望ましい人物になるように努力するから、結果的には有用な強化システムになりうるということだ。
 最後に、大学院博士課程の入学試験の場合はどうか。この場合には、国立大学であっても、紹介教授がOKすれば(所定年限以上の教育を受けていれば)誰でも入れるようなシステムになっているところがあるように聞く。そういう意味では縁故入学がまかり通っていると言えないこともない。ただ、そういう形で入学したところで、能力の無い者はけっきょくは学位を取れないから、学位審査機構さえ厳格にしておけば、どういう学生を入学させたって構わないという主張も成り立つ。まして、定員割れを恐れる大学院にあっては、学位を取れそうな優秀な学生を拒む理由は無いから、よほど情緒的に問題が無ければ、わざわざ縁故を頼らなくても入学できるはずである。少子化が進み、大学院間にも競争原理が働くようになると、逆に教授のほうが縁故を頼って優秀な学生の確保に奔走する時代が来るかもしれない。
【新しく知ったこと】
【夕食後の夫婦の散歩】------48日目。ピカチュウ万歩計で2595歩。----
昔住んでいたアパート〜農学部農場。
【生活記録】
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】