【思ったこと】
980909(水)[一般]信仰について(その2)ブドウ園の三人兄弟の話 昨日に引き続いて、宗教の話。きょうは、宗教と人生観の問題について考えてみたいと思う。 このことに関連して、昔読んだイソップの寓話の中に、ブドウ園の三人兄弟の話があった。この話は、宗教が人生観にプラスに働く可能性のあることを示唆しているように思う。 ※但し、以下のストーリーは、私の40年近く前の記憶によるもので、相当に変容している恐れがある。 むかし、3人の息子をもつ農夫が居た。息子たちはもう立派に成長していたが、いつも遊んでばかりでちっともブドウの世話をしない。月日が流れ、その農夫は遺言状を残して死んだ。その手紙にはは「お前たちにはずいぶんと迷惑をかけた。じつは、私は、何かの時に役立てようとこのブドウ畑に宝を埋めて置いたのだ。もし何か困ったことがあったら、それを掘り返して自由に使ってよいぞ。」 イソップの寓話は、同じストーリでも何通りかの解釈ができる。上の話も、「本当に価値のある宝物は何か」という解釈にもとれるし、行動分析学的に「付加的な随伴性を過渡的に設定することで行動内在的で自動的な強化機能を高めることができる」というような解釈も可能であるが、ここでは当初、農夫が隠した言っていた宝物が架空のものであったということに注目したい。もし、兄弟たちに「畑を耕したらブドウが立派に実るので、一生懸命働きなさい」という遺言を残したとしても遊ぶことしか頭にない兄弟たちは、たぶんそれに従わなかったであろう。架空の強化子である宝物を設定することで「土を掘り返したらば宝物が見つかる」というルール支配行動を作らせ、最終的にそれは収穫という実在する別の強化子によって強化される結果を生みだしたのである。 宗教が現実生活にプラスに働くとしたら、おそらくこういう面であろうと思う。つまり、現実の生活を充実したものにするためには、時間的・空間的に限られた現実の枠内で実在する強化子を設定するよりも、死後とか、異次元の天国のようなところに架空の強化子を想定しておいて、それによって現実の生活をマネージしていったほうが、結果的には現実の生活も充実する場合があるということである。 年をとって余命幾ばくもないという段階に達すると、じぶんの行動に確実な結果を伴わせることが難しくなる。そういう時には、天国を想定して、いまの行動がそこに旅立つ準備であると考えるほうが充実した毎日になるかもしれない。 もっとも、じぶんの生存期間の外に価値のある結果を想定するための手段として宗教が絶対必要であるとは限らない。たとえば、100年後の地球環境を守るために、死の直前まで自然保護活動に尽くし、そのことが生きがいになっている人だっているであろう。それから、天国のようなものを現実以上に強く描き過ぎてしまうと、現実逃避や宗教的なテロ活動にはしる恐れもある。 「天国を目標に生きる」と言っても、実は現実の生活の充実こそが本当の目的なのであって、天国はそれを実現するための手段にすぎない、というぐらいに考えたほうがよいかもしれない。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【夕食後の夫婦の散歩】第4日目:2733歩
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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