【思ったこと】
980908(火)[一般]信仰について(その1) くりすさんが、統一○会の○潔キャンディや「某Kの科学」に関連して宗教についての考えを述べておられた。少し前に9/3にも、ハラにイチモツさんが、やはり統一○会がらみの話題をとりあげておられたし、英文日記のほうでも元シングルパパさんが長年あっためてきた考えを少々披露しておられた。そこで、私もこのあたりで、自分なりの考えをまとめてみたいと思う。 私はまず、宗教は、世界観と人生観に分けてその意義や弊害を考えるべきだと思っている。ここでいう世界観とは「世界とは」「宇宙とは」「物質とは」といった問題についての認識のしかた、人生観とは「人生をいかに生きるべきか」、「人生の目的」、「生きがい」、「善悪」、「社会」などについての考えを意味するものとする。『新明解』では「世界観」の意味の中に「人はこう生きるものだ」という見方も含むように書かれているようだが、ここでは人の生き方を論じる内容はすべて人生観のほうに含めることとしたい。 特定宗教の中には当然、独自の宗教的世界観が先にあってそれに基づいた人生観が構築されているものもあるだろうが、それはその宗教が勝手に決めていることであって、本質的には別の問題として考えるべきだと思う。 世界観と人生観は必ずしも一体化したものとは限らない。例えば、仮に人類を含む宇宙全体がすべて神によって創造されたものであったとしても、それをもって神に感謝しなければならないという理由はどこにもない。感謝というのは、人間社会の付き合いの中で形成された概念であって、それを人と人以外の存在の間に持ち込んでも所詮アナロジーに過ぎないのである。創造主が居たからといって、それを称えようが、一切無視しようが、非難しようが、いずれの選択肢を選んでもそれで咎められる理由はどこにも無い。「作ってくれた人に感謝すべきだ」というのは、人間関係を良好に保つためにできあがった知恵なのであって、それが神と人間との間にも成り立つかどうかは、あらためて議論しなければならない問題である。 世界観に重きをおく宗教は、必然的に反科学的な方向を持たざるを得ない。宗教的な科学観はしばしば自然科学と対立をおこしたり、自然科学に干渉したり、自然科学によって否定されたり、あるいは自然科学の成果と矛盾しないようにコジツケに終始する。 自然界には未知の現象がたくさんある。分からないことは分からないと認めた上で、地道にその解明をはかり、いつでも柔軟に見方を修正できることが、実りある認識をもたらすのである。宗教的な世界観は、未知の現象を何でもかんでも説明したがる。現時点では分からないことまで分かった気にさせてしまう。これは思考の停止、発展の停止をもたらす。さらには、くりすさんも言っておられたように、自分で疑問をいだき自分で考える力さえ妨げる恐れがある。そういう宗教は、奇跡とか超能力とか世界の破滅といった科学性のない主張を繰り返し、時として医療行為を拒否する。私が嫌いな宗教団体は、すべてこの部類に属する。 いっぽう、人生観に重きをおく宗教の中には、死後の幸福よりも現世での充実した生活をめざすものもある。 科学が発達しても宗教が衰退しないのは、宗教によってもたらされる人生観に何らかの有用性があるためと考えられる。宗教的な人生観は、科学の発展とあまり関係なく我々を方向付け、悩みを解決し、生きがいを与えてくれる場合がある。それゆえ、特定宗教の世界観の誤りを指摘するだけでその宗教が消滅することは無い。世界観に全く興味の無いお年寄りでも、人生観の面で有用性があれば信仰を続けることであろう。そういう宗教からは学ぶべき点も多い。 不定期更新で明日以降に続く。なお、宗教に関する御意見・反論は御自分のホームページにお書きください。掲示板への書込はお断りします(反社会的宗教団体による妨害を防ぐため)。 |
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