じぶん更新日記

1997年6月


文中のリンクについてはメンテを行っておりません。ご了承ください。

97年6月のインデックス



970630(月)
[日記]日記を書くこと読むこと(2)書く原因
 
 私がWeb日記を始めた記念日は、『スクラップブック』を開始した1月29日ということになっている。きょうで5ヶ月を迎えたことになる。2月になると、ヘールボップ彗星に熱中し、『彗星日記』を書き始めた。彗星が見えなくなった5月上旬からは、この『じぶん更新日記』を初め、今日に至っている。これまでに、どのくらいの量を書いたのか、例によってデータをとってみた。
日記を書いた量(バイト)
彗星日記/続彗星日記スクラップブックじぶん更新日記月合計
1月__4.9__4.9
2月_2.0_53.5_55.5
3月35.4_37.5_72.9
4月50.6_56.6107.2
5月37.9100.037.6 175.5
6月34.7_92.373.2 200.2

※テキストデータのみのサイズの合計。タグも含まれる。
※6月は28日までのデータ

 上の表を見ると、6月にはとうとう、200KBを超えてしまい、1文字2バイトで計算するとざっと原稿用紙128枚分、1日当たり4枚以上を書き続けていることになる。
 たぶん、これからは減ることはあっても、これ以上に量が増えることはないと思うが、それにしても、どうしてこうして書き続けているのだろう。
 私は仕事柄、「不明な情熱」というような言葉は使わない(他の方に使うなと言っているのではない。念のため)。ある行動が高い頻度で起こり、維持されている場合には、そこに何らかの強化子(好子:コウシ)が随伴していると考える。
 日記を書くという行動を分析するには、次のような視点が必要ではないかと思う。
  1. 日記を書くという行動は、それに伴う(随伴する)、どういう結果によって維持強化されているのか。
  2. その結果は、書くことに内在する(ビルトインされた)結果なのか、外部から付加された結果なのか。
  3. 日記を書き続けることによって、何が変るのか?

 上記の1.は、日記の内容によって異なる。あくまで自分の生活の向上のために書く日記、何かを主張したり伝えたりするための日記、他の日記作者との交流を楽しむための日記など、それぞれによって随伴する結果の量と質が変わってくるはずである。
 2.で重要なことは、日記を書くことが他者が与える結果によってどう変わってくるかということだ。幼稚園児や小学生が日記を書く場合、すくなくとも書き始めの頃は、親や先生が与える付加的な結果が重要な意味をもつ。Web日記の場合でも、“読んだよボタン”の得票結果や、読者からのメイル、アクセス数、“日記よみ日記”の批評記事などが影響を与える場合がある。
 3.もとうぜん日記の内容によって異なるが、何を書いたとしても変わるものはたくさんあるだろう。例えば、生活の規則性、文章表現の上達、相手を思いやる表現の上達、もやもやとしたアイデアの整理...、といった個人内部での変化から、見知らぬ人との交流といった対人的な変化、また、(現状ではそういう日記は存在しないが)もし1日の読者が1万人にも達するような日記であれば世論全体を動かすという変化もおこりうる。
 これら3つは独立した別個の問題ではなく、一体化したものである。きょうは時間がないので、枠組みだけを示すことにしたいが、少なくとも私の場合、3番目がいちばんの関心事となる。ふつう、行動分析では、まず対象となる行動を明確にして、それがどういう結果によって変化するのかを検討する。しかし、日記を書く行動の場合には、書くこと自体よりも、それと連動して変わる別の行動を同定することのほうが意味があるように思う。

970629(日)
[心理]犯人像の予測と事後解釈

 きょうは、『日記を書くことと投票ボタン』というタイトルで自分のデータをまとめようと考えていたが、例の痛ましい事件が一段落したとの報道を受けて、未知の現象を予測することが、いかに難しいものであるか、資料を提供することとしたい。 長文のため、こちら(11KB)をご覧ください。 さらに詳しい資料はこちら(23KB)にあります。
 この資料は、犯人逮捕前に推理をした方々を個人攻撃する目的で集められたものではない。犯人が逮捕された後では、いかようにもこじつけができるということを言いたいのだ。
 犯罪ばかりでない。個人的な悩み事や家庭内の問題行動に対して、精神科医やカウンセラー、教育評論家などは、まことしやかなコメントをつける。しかし、起こってしまった行動に後から、いくら、もっともらしい解釈をくっつけたところで、根本原因を同定したことにはならない。真の説明というのは、行動を予測したり制御したりする力をもつものでなければ意味がないということを、あらためて指摘しておきたい。

970628(土)
[日記]日記を書くこと読むこと(1)ヒトは1日に何種類の日記を書けるか
 月末の3回(ひょっとして4、5回になるかも)は、日記を書くことと読むことについて、6月の総括を書きたいと思う。きょうは、そのうち、私は毎日いくつぐらいの日記を書けるだろうか、これからは、どういう日記を書いていこうか、ということを考えてみたい。
 私はいま、まいにち3つの日記を書いている。こういう書き方をしている方がどのくらいおられるか、例によってデータをとってみた。
 まず、日記猿人参加者全体で、複数の日記を同時に書いている人がどれだけおられるか調べてみた。6月27日の昼休み頃の時点で、日記猿人には770番までの日記が登録されていた。これをファイルにセーブしてエディタを利用して数えると、実際に登録されている日記は668であることがわかった。さらにエディタ等で、これのメイルアドレス部分だけを独立行に切り離してソートし、同じメイルアドレスが2箇所以上に記載されている個数を数える。結果は、次の表のとおりであった。

日記猿人で、複数の日記を登録している方の人数
日記の個数人数備考
6_1人
3_7人
221人

※アドレスが異なる日記が1つずつあったが、作者名が同じであったので加えてある。

 このデータは、日記一覧から容易に取得できるので具体的なお名前を公表してもよいかと思ったが、世の中何事もプライバシーが大切だ。わざと、違う人に見せかけて2つの日記を書いて密かに楽しんでいる人もいるかもしれないので、あえてこれ以上のデータは示さない。
 この表を見ると、3つの日記を書いているのは7人で、2番目に多いことがわかった。私だけが特別なことをしているわけではないとも言えるが、日記作者628(668から上の表にもとづいて40を減じる)人のなかでは、かなり目立つほうかもしれない。
 日記をたくさん登録しても、更新していない場合もあるだろう。そこで、金曜日の昼休みの時点での新作TOP200(6/26 11:45〜6/27 12:46)をファイルに落として、複数執筆の日記がどれだけ更新されているかを調べた。結果は、3つの日記を更新した人が2人、2つの日記を更新した人が6人であった。私は3つの日記を更新しているので、何と、もう一人のお方とTOPに位置しているのであった。これはちょっと、多すぎるかなあというのが率直な感想だ。

 さて、私が日記を書く時間帯はだいたい次のようになっている。まず、朝5時頃に起きてヤキイモ(電子レンジ+オーブントースターで焼いたサツマイモ)をかじり、コーヒーを飲みながら朝刊を眺める(妻は6時半頃に起きるので朝食はいつもコレだ)。そして、これは面白いと思う記事を見つけ、5時半から6時半頃まで書き込む。これが“スクラップブック”だ。夜は、21時頃から、この“じぶん更新日記”を書く。これも約1時間、そのあと、“続彗星日記”も書くが、だんだん眠くなってきて適当に書いて止める。
 自宅で日記を書くことについて、家族はあまりよく思っていない。前にもこの日記に書いたが、妻は、
あなたバッカじゃないの。心理学とか言っているけれど、本当は、日記の相手しかできないんでしょう! そうやって一生が終わっちゃうのよ。おバカな人生!
などと言って怒るし、算数の宿題の手伝いをしないので、息子からも
お父さん、日記しかすることねぇんか!もうちょっと他のこと(つまり算数の宿題?)考えたらどうだ! !
などと苦情が出ている。
 そこで、来月からは、日記にかける時間を少し減らしてみようと思う。具体的には、これまで“彗星日記”、“続彗星日記”として続けてきた日記を“じぶん更新日記”に付属・統合させることだ。山や海に行って来たときの記録は、必要があれば特集を組む。もっとも公開するかどうかは未定。花の写真も“Web日記附属植物園”みたいにして、1週間に1度だけ更新する。
 彗星日記の登録はどうするか。日記猿人ではせっかく565番をもらってきたので、欠番にするには惜しい。そこで、こう考えた。スクラップブックは朝、じぶん更新日記は夜に書いているのだから、それ以外の時間、つまり昼に書く日記にすればよい。といっても、夜見えていた彗星がいきなり『お昼の日記』に変身するのはおかしいので、『勤務時間中に書く日記』ということにしよう。で、勤務時間中に書く以上、内容は、研究計画(これは富山大の石井さんがやっている)とか論文の下書き(こんなもの見る人いないだろうなあ)、授業ネタ、MLでの自分自身の発言、教材、テスト問題(えっ、その日記を読むとテスト問題が事前にわかる?)などにならざるをえない(この基準はあくまで私自身について述べているのであって、仮に勤務時間中に日記を書いている方がおられたとしても、そういう方を咎める意図は一切ない)。たぶん、登録日記の中でも、いちばんツマラナイ、誰も読んでくれない内容になるだろう。そんなら止めてしまえ、という方もおられるだろうが、公開しておけば、何かしら励みになる。登録番号が4桁とかになって足りなくなってきた時にはいつでも返上するとして、とうめん、“読んだよボタン”もそのままつけて、続行していきたいと思う。目指すは、得票ゼロ連続記録樹立だ。

970627(金)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(10)
 血液型性格判断が当たっていると思われる理由についていろいろ書いてきた。まだ書き足りないことがたくさんあるけれど、週末〜月末は、日記を書くことと読むことについての総括をしたいと考えている。血液型性格判断に関する次の話題は、来月以降を予定している。
 さて、今までは個々人の特性を扱ってきたが、今日は2人以上の問題、つまり相性について考えてみたいと思う。
 その前に、昨日の最後に問いかけた勝新太郎さんと、中村玉緒さんの血液型であるが、どちらもO型というのが正解だ。 血液型性格判断資料集の6.の表が当たっていると仮定しよう。勝さんは、追悼記事で、“破天荒、公私に勝新流”などと言われたぐらいだから、A型とAB型は、ちょっと当てはまらない[注]。これは良しとしよう。しかし、B型ではなくてO型であると積極的に主張できる根拠はあるだろうか。
 勝新太郎さんのことを話題にしたかった本当の理由は、じつは相性である。O型どうしのカップルは相性が悪いというのが、血液型性格判断の“定説”になっている。じっさい、能見正比古氏の『血液型でわかる相性』(青春出版社、1971)によれば、O型どうしのカップルは、激烈なライバル関係だとされている。
 そこで、“血液型性格判断はウソだ”と主張する者は、O型どうしで仲のよいカップルを探してきて、反例としてかかげたくなる。その代表の1つが、上に述べた勝新・中村玉緒夫妻、ほかによく引き合いに出されるのが、芸能界きってのオシドリ夫婦だと言われている神津善行・中村メイコ夫妻である。
 もっとも、能見氏の本(こういう本は、岡山の“古本市場”という古本屋で100円均一で何冊でも手に入る)には、ちゃんと逃げ道が残されている。つまり、O型夫婦は、「同志的結合と、“おたがいはおたがい”という2つのケースに分かれる。」と、ちゃんと書かれてあるのだ(上掲書、p.86)。つまり、非常に仲がよければ“同志的結合”、あまり仲がよくない時は“おたがいはおたがい”と分類されるので、けっきょくどんな夫婦でも当てはまることになってしまう。
 同じような逃げ道は、どの血液型間にも用意されている(※この時点での能見氏の著書では、AA型とBB型は資料不足ということで本文中では触れられていない)。
 要するに、“相互の理解と許し合いがあれば”とか“感情面や心の面で割りきれば”という但し書きがついているので、うまくいけばその条件を満たしたためと説明できるし、相性が悪ければ、但し書きが満たされなかったケースとして説明されてしまうので、ゼッタイ外れないような仕組みになっているのだ。
 最後に、ついでながら、上掲の本の“相手に嫌われないためのポイント”というのを紹介しておこう。
 このシリーズをずっとお読みくださった方には、もはや説明は不要だと思うが、何型であろうと、こんなことは当たり前ではないか。例えば、“AO型には心を傷つけないようにする”とあるが、何型であろうと、心を傷つけるような相手が好かれるはずはない。第7回で指摘したフリーサイズ効果は、ここにもあらわれている。

[注]上掲の本を丹念に読むと、AO型、AB型にも勝新さんらしい特徴が書かれていることに気づく。例えば

970626(木)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(9)
血液型性格判断が当たっていると思われる理由として、統計学上のトリックのほか、フリーサイズ効果、“思いこみ効果”があることを論じてきた。きょうは、残る1つ、“条件づけ効果”について書こうと思う。
 “思い込み効果”が現状認識のレベルにとどまるのに対して、条件づけ効果というのは、血液型性格判断で指摘された特徴に一致するように当人を作り替えてしまうことっをいう。
 一昨日も言及したが、血液型別の縦割り保育をやっている保育園で、血液型別のグループに分けてスイカを食べさせる場面がTVで紹介されていた。このうち、A型だけは、赤い所を残さずきっちりと食べた。これぞ、まさにA型の几帳面な性格を表すと思われた方もおられるかもしれない。しかし、よく考えてみると何か変だ。今どきの子供が、赤い部分が全く残らないような食べ方をするだろうか? うちの娘もA型だけど、こんな、カブトムシやキリギリスのような食べ方はしない。では、どうしてこんなことが起こったのだろう。おそらく、血液型別縦割り保育の中で、A型の子供には何事もきっちりさせるようなしつけが過剰に行われたためではないかと思われる。
 血液型性格判断資料集の7.の表には、血液型別の子供の褒め方・叱り方、あるいは血液型別の勉強のさせ方が紹介されているが、こういう教育をしていけば、当該の血液型の特徴に合致するような行動が形成されていくのは当然だ。たとえば、いつも“やりなさい”ばかり言っていれば、几帳面で、控えめで、おとなしい“性格”が形成される(“A型的”人間)。一方、自分から始めるような雰囲気作りを大切にしてやれば、マイペースで独創的、いろいろなものに好奇心を示すような“性格”が形成される。あの保育園で、血液型別の特徴が顕著にあらわれたとしても、それは生まれつきの特徴ではなくて、保育園で条件づけられた結果である可能性がひじょうに高いのではないかと思われる。
 血液型に限らず、子供の“才能”と呼ばれる大部分のものは、親の思い込みに基づいて条件づけられる可能性が高い。例えば、Xという子供の絵がたまたま、上手に描かれていたとする。親は、子供には絵の才能があると思いこんで、上等な絵の具を買い与え、絵画教室に通わせる。こどもは、ますます絵に熱中する...。いっぽう、Yという子供は、たまたま、楽器を上手に演奏したとする。親は、さっそく、ピアノ教室にその子を通わせる。それでますます音楽的才能が伸びていくのである。もちろんそれはそれでよい。しかし、もしかしたら、Xに音楽を、Yに絵画を習わせたほうが、いっそうの能力が引き出せたかもしれない。安易な思い込みは、多様な可能性をぶち壊す。
 さいごに、24日に葬儀が行われた勝新太郎さんの血液型は何型だと思われるだろうか。また、喪主の中村玉緒さんは? この御夫婦のことは、しばしば血液型性格判断で話題になるので、その種の本を調べれば簡単に見つけられると思うが、ここでは、そういうカンニングはせずに、このお二人それぞれの行動特徴から推測していただきたい。もちろん、血液型性格判断は当てにならないという立場をつらぬけば、この問いかけ自体無意味ということになるが...。

970625(水)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(8)
 きょうは、血液型性格判断における“思い込み効果”のことを書こうと思う。と言いつつ、まず自分のことを白状しなければならないが、私は、実は、思いこみの名人なのだ。以前にも書いたように、Web日記を読み始めた頃、私は『BOWDO』は、発音の似た“ばうわう”という人が書いているものだと思い込んでいた(但し、きむあつ氏が『思うこと』の筆者であると思い込んだことはなかった)。じつは、昨日の昼に、もうひとつ、とんでもない思い込みをしていたことを発見した。それは、六甲地方に住む某大学院生の方を、ずっと男性だと思いこんでいたことだ。こちらのほうは、単なる勘違いでは済まされない問題がある。というのは、もしかしたら、私の心の片隅に、性役割あるいは男性性・女性性について、何らかの偏見が潜んでいる可能性があるからだ。
 思い込みの例は、歴史でも小説でも数え切れないほどある。コロンブスはアメリカをインドであると思い込んでいた。ロミオとジュリエットは、思い込みによって悲劇に終わった。
 さて、前置きが長くなったが、血液型性格判断の場合の思い込みとは、“**型は、OOという性格である”と決めつけてかかることである。 血液型性格判断の本ばかり読んでいると、自分や他人の性格がその本の指摘どおりであるような固定観念をもってしまう恐れがある。たとえば、「A型は優柔不断である」と書かれていると、A型の自分は本当に優柔不断な人間であると思いこんでしまう。あるいは「B型は協調性がない」という記述を読んだあとでは、B型の相手の協調性のない部分だけが目につき、協調的な側面を見落としてしまうのである。
 人は、自分や他人が失敗した原因をしばしば性格的特徴に帰属させる。そのこと自体、本当は問題視しなければならないのだが、そこに血液型性格判断に基づく思い込みが入ってくると、さらに原因の固定化がすすむ。つまり、“あの人があんなことをしでかしたのは、**型だからだ!”というような安易な原因帰属を助長する。血液型は取り替えることはできないので、失敗を反省して改善のための方策を見出す、という努力を放棄する結果になりかねない。
 子供の教育における思い込みは、さらに問題が多い。先日のTV番組では、行田市の太井(おおい)保育園で、週に2回、血液型別の縦割り保育を実施していると紹介されていた。3-6歳の子どもたちは、まだ行動特徴が定まらず、能力的にもさまざまな可能性を秘めている。そういう個性を細かく観察する以前に、「**型は、こういう特徴があるから、**型の保育をすべきだ」というような色眼鏡をかけてしまうことは、まさに思い込みの弊害をもたらす。

 以上、思い込み効果の弊害ばかりについて書いてきたが、それでもなお思い込みが起こるのは、何らかの強化子が随伴しているからに他ならない。
 たとえば、思い込みには、“迷い”を消し去る効用があると言ってよいだろう。勉強法にしても、職業選択にしても、いろいろと迷うよりは、“これがゼッタイ自分に合っている”と思いこむほうがよい結果をもたらす場合もある。情報化社会の現代に思い込みが起こるのは、無限に近い情報が氾濫するなかで、とりあえずの結論を下す、という、暫定的な整理整頓効果があるためだと考えられる。
 したがって、私は、血液型性格判断に基づく思い込みが100%悪いとは主張しない。ただ、自分や相手を知るための地道な努力を怠り、多様な可能性や長所を見逃す危険があることは、理解していただきたいと思う。

970624(火)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(7)
 これまで、血液型性格判断は、まじめな話であるが、科学的には何も実証されていないということ、そして当たっていると見せかけるために、統計上のさまざまなトリックが駆使されていることを指摘してきた。しかし、血液型性格判断が当たっていると思われる理由は、他にもまだ3つ以上ある。
 大村政男先生は、この3つを、フリーサイズ効果、ラベリング効果、インプリンティング効果と読んでいる。フリーサイズ効果という呼称はそのまま使わせていただくが、ラベリング効果とインプリンティング効果はちょっと誤解を招く恐れがあるので、ここでは、“思いこみ効果”、“条件づけ効果”というように読み替えておくことにしたい。
大村センセイは血液型性格判断を系統的に批判した最初の心理学者である。もっとも、いたずらウォッチングという番組に出演したあたりから、だんだんアブナイ(何がアブナイのかは御想像にお任せするが、エッチな話ではない。念のため)話が多くなってきて、心理学仲間では、ちょっと心配する声があがっている。

 きょうは、そのうちのフリーサイズ効果だけについて述べる。実験のために、あらかじめ、“おっちょこちょい”、“たまには腹を立てる”、“たまに忘れ物をする”、“時々やる気がなくなる”というような、本来誰にでもありそうな特徴表現を用意しておき、適当に4種類の血液型に対応づけたとする。例えば、“A型は、おっちょこちょい”、“O型は、たまには腹を立てる”、“B型は、たまに忘れ物をする”、“AB型は、時々やる気がなくなる”などと勝手に決めておく。ふつう、われわれは、自分の血液型、もしくはごく親しい人の血液型の特徴だけにしか注意を向けない。そこで、例えばO型の人は、“あなたは、たまには腹を立てる”と書いてあるのを見て、なるほど当たっていると思う。同じく、B型の人は“たまには忘れ物をする”のでやっぱり当たっていると思う。本当は、どの血液型であっても、そう言われれば当たっているというような特徴なのだ。
 フリーサイズとはちょっと違うが、基準が曖昧な特徴表現もよく用いられる。先日のTV番組で、血液型別の縦割り保育をやっている保育園で、血液型別のグループに分けてスイカを食べさせる場面があった。残った皮の部分を比較すると、A型だけは、赤い部分が残らないようにきっちり食べたが、B型は食べ残しが目立ち、O型は大まか、AB型は、きれいなものや雑なものが目立つ、という結果になった、と紹介されていた。A型の子どもたちだけがキリギリスのように赤い所を残さず食べた事実は認めるとして(このことについては、後述する予定)、他の血液型の子どもたちの食べ方は、どう見ても区別つかない。“食べ残しが目立つ”ことと“大まかな残し方”をすることと、“きれいなものや雑なものが目立つ”残し方をすることが、どう違うのか、少なくとも私にはさっぱりわからなかった。
 血液型性格判断資料集の6.の表を見ると、いかにも血液型によって性格が異なるような印象を受ける。しかし、自分の性格を考えてみてほしい。下記の特徴の中で、自分には絶対あてはまらないという特徴がいくつあるだろうか。一方、これは自分の絶対不変の特徴だというものがいくつあるだろうか。どれもこれも、“そう言われれば、そういう所もある”ような特徴ばかりである半面、“24時間いつでも”というほど絶対的に強固な特徴とも言い切れないようなものばかりではないだろうか?
几帳面、慎重、平和、控え目、世話好き、人をたてる、おとなしい、慎重、サービス精神、几帳面、平和、消費性大、独創的、好奇心、マイペース、面白い、好奇心旺盛、無鉄砲、無愛想、面白い計画型、合理的、大まか、行動的、スキンシップ、陽気、あけっぴろげ、積極的、大胆、親切、運用型、気前がいい、二面性、冷静、自分に忠実、趣味性高い、傍観的、気まま、ソツない、イヤミ、生活力、計算高い、


970623(月)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(6)
 21日(土)の記事で、
もうひとつ、先日のTV番組では、プロ野球の優秀選手の血液型比率をとりあげていた。それによると、優秀投手の血液型には偏りがなかったが、優秀打者について調べてみたところ、最多本塁打、生涯通算安打、生涯通算打点のTop10は、いずれも殆どがB型とO型であったという。1つならともかく、本塁打、安打、打点のどれをとっても偏りがあるのだから、これこそ、血液型人間学が正しいことの証明だ、と考える人も多いかもしれない。しかし、ここには少なくとも3つないし4つのトリックが潜んでいる。
と、書いた。これに対しては、日記猿人に参加されているよろずやさんから、ご解答をいただいた。私が想定していた解答も、ほぼ同じ内容であった。  きょうはここまでとさせていただく。血液型性格判断が当たっていると思われる理由は、他にもまだ3つ以上ある。次回以降、すこしずつ意見を述べていくことにしたい。

970622(日)
[情網]日記を読むことについての自己分析

きょうの内容は、“日記猿人”参加者向きです


 きのうの日記で、
明日は、日曜日なので、いったん休憩して別の話題をとりあげたいと思う(ひょっとして日記読み日記?)。
と書いた。じつは、6月18日にちょっと思うことがあって、多様な価値観の問題、それと本質的な自由はあるか?というようなことで、お気軽に日記でも書こうか、とずっと考えていた。ところが、一昨日ごろから“日記界”の一部が騒然(でもないか)としてきて、一言居士の私としても黙っていられなくなった。“思うことをお気軽に書く”のは後日ということにして、得票ランキングと投票システムについて、少し、自分のデータを集めてみることにした(仕事柄、私はデータをとるのが大好きなのだ)。

 まず、私はいくつぐらい日記を読んでいるか、回線が空いている日曜日を利用して全日記一覧表示を眺める。このファイルをいったんセーブしてエディタで行数を数えると、1997年6月22日朝の時点で、日記猿人に登録された日記は663にのぼることがわかった(登録番号は760を超えるが、離脱した人も100人ちかくおられるようだ)。私はブラウザでのVLINKの期限を30日に設定しているが、663の日記のうち、私が1ヶ月以内に少なくとも1度拝見した日記は219(33%)であることがわかった。つぎに、先月97年5月の月間ランキングに掲載されている376の日記について、ランキング上「位」の日記と下「位」の日記について、呼んだ日記の比率を示したのが次の表である。

表1

97年5月の月間ランキングに表示された日記のうち、私が読んだ日記の比率
順「位」比率(%)
__1-_5090%
_51-10082%
101-15054%
151-20038%
201-25036%
251-30032%
301-35014%
351-376_7%

 つぎに、6月22日正午の時点の新作Top200のリストを眺める。ここには、6月21日3:50から6月22日11時11分までに、報告または自動更新によってリストアップされた日記が表示されている。このうち、私が30日以内に1度は拝見した日記は、121であり、60.5%を占めている。

表2

新作Top200の中で拝見した日記(6月22日正午現在)
番号更新日時拝見した数/総数、(比率)
__1-_18当日5:55以降13/18(72%)
_19-_61当日5:55自動更新14/43(33%)
_62-149前日夜間17:55-当日5:5566/88(75%)
150-167前日17:55自動更新_7/18(39%)
168-181前日昼間5:55-17:5513/14(93%)
182-199前日_5:55自動更新_7/18(39%)
200____前日夜間_1/_1()

 今日は、時間がないので、特に主張はせず、上のデータについて私なりの簡単な考察をするにとどめる。まず、表1から言えることは、私個人は、やはりランキング上「位」の方の日記をたくさん読んでいる。表2から言えることは、新作Top200にリストアップされている日記を読む比率は、日記全体における比率よりも高いということ、その中でも特に、能動的に更新報告された日記を読む比率のほうが、自動更新された日記を読む比率の倍ぐらい高いということだ。これをどう解釈するか。申し訳ありませんが、次回のお楽しみということで。
<補足>
追加データとして、昨日(97年6月21日)の得票リストにおいて、私が読んだことのある日記と得票数とのあいだの関係を調べてみた。念のためお断りしておくが、下の表で“拝見した日記”というのは、あくまで、1ヶ月以内に読んだことのある日記という意味である。昨日読んだということではない。なお、昨日1票以上の得票があった日記は168、そのうち私が読んだことのある日記は115で、69%であった(長谷川自身の日記2篇は除いてある)

表3

私が読んだことのある日記と、6月21日の得票数
得票数拝見した数/総数、(比率)備考
10票以上25/28(89%)
5-9票27/29(93%)長谷川自身の日記を除く
3-4票14/20(70%)
2票17/28(61%)
1票32/61(52%)
 このデータを見ると、高得票者(おおむね5票以上)の日記は、やはりたくさん読んでいることがわかる。

970621(土)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(5)
 昨日、少数のサンプルでは血液型分布の比率が偏りやすいということを述べた。しかし、血液型人間「学」の本を見ると、どう見ても偶然ではなさそうなデータもかかげられている。こういうデータが一例でも見つかれば、“血液型と性格は関係がない”という一般常識の反例となると思う方もおられるかもしれない。
 さて、自然科学では一般に、ある比率の偏りが偶然か、それとも何か意味のある偏りなのかを客観的に判定するときに、統計的検定を行う。
 たとえば、コインを30回投げて表が10回、裏が20回出たとする。これは偶然なのか、それとも裏が出やすいように細工されたイカサマのコインなのか、判定する必要があったとしよう。検定をするためには、まず、正常なコインを30回投げたとき、表が10回またはそれ以下となる確率を計算する。2項分布の表から、この確率は4.9%つまり5%未満であることがわかっている。5%未満ということは、滅多に起こることではない。こういう時は、コインが正常だという主張に固執して被害を被るよりは、イカサマのコインだと判断して別のものに取り替えたほうが得策だ。よって、この例では、コインは、5%水準でクロだと判定されることになる。
 言うまでもないが、これは、絶対的な証明ではない。正常なコインでも、30回中30回とも表が出ることだってある。逆に、イカサマのコインでも、ぴったり15回ずつ、表と裏になる場合だってあるだろう。だから、統計的検定に基づく判断は、かならず誤りをおかす危険性をはらんでいる。とはいえ、現実の出来事というのは、いろいろな要因が複雑に作用しているので、経験的事実だけから真偽を判断することは、殆ど不可能に近い。もし“絶対的真理”にこだわって、どっちつかずの態度をとっていたのでは何も進歩しないし、だいいち実用的に困る。例えば、ある薬に治癒効果があるかどうかを判定するとき、100%効くことが証明されるまで待つわけにはいかない。きのう日本に上陸した台風7号の進路予想をする場合でも、24時間後の位置を100%予想できるわけではない。そういう意味で、誤りをおかす危険性を承知しつつも、統計的検定によって物事にシロクロの判断をせざるを得ないことが、世の中には、いっぱいある。
 さて、ここで注意していただきたいのは、上記の“5%水準”というのは、5%ぐらいは偶然に起こりうるということを意味している。仮に、47都道府県の県庁所在地で、それぞれの代表が30回ずつコインを投げたとしよう。すると、47×0.05=2.35であるから、そのうちの、おおむね2つの都道府県では、表が10回以下になることが期待される。もちろんこれは偶然の結果であり、何の不思議もない。この時、「XX県とYY県では、コインを投げると表が出やすい」とか、さらにエスカレートして、「XX県とYY県は、特殊なパワーが働いているため、コインを投げると表が出やすい」などと主張しても、誰も相手には、してもらえまい。
 ここで、血液型性格判断に話を戻す。例えば、100種類の職業について血液型の比率の偏りを調べたとしよう。かりに、血液型の比率と職業の違いとの間に何の関係もなかったとしても、100種類を個々バラバラに統計的検定にかければ、このうちの5種類ほどでは、血液型比率の分布は有意に偏っていると判定されてしまう。都道府県別のコイン投げと同様だ。つまり、偏りが顕著であったものだけをつまみ食いして検定にかければ、いくらでも都合のよい結論を出すことができるのである。

 このシリーズを始める発端となったテレビ番組では、コンビニでの支払い行動が血液型によって違っているかどうか、調べていた。結果は、どの血液型でも小銭を出す行動には差が見られない。ところが、受け取ったお釣りを財布に入れる前に確認した人の比率を調べると、A型が136人、O型が32人,B型が35人,AB型が19人であり、A型が多かったと言う。この話を聞くと、やはり、お金の払い方には血液型による差があると思ってしまうかもしれない。
 しかし、それではなぜ、小銭の出し方には差がなかったのか。また、店員と挨拶を交わす人の比率、買い物の時間や金額は、どうであったのか? みんな有意な差があったのだろうか?
 もし、コンビニでのいろいろな行動を調べ、最も偏りが顕著だったものだけをピックアップして紹介していたとしたら、それは全くフェアではない。「XX県とYY県では、コインを投げると表が出やすい」という結論と同じ誤りをおかしていることになる。
じつは、科学研究でも、こういうズルをする人がいる。例えば、ネズミを2種類の生育環境で飼育し、体重、寿命、活動性、学習能力など、さまざまな項目で差を調べたとする。この環境の違いがゼッタイに重要だという固定観念にとらわれている研究者は、どこかで差が出るはずだ、と血眼になって調べる。体重、寿命、活動性、...、どれにも差は見られない。あっ、やっと見つけた。A条件のほうがB条件より、禿げているネズミの数が有意に多かった。これはストレスの影響に違いない。よって、2種類の生育環境は、ストレスに違いがもたらすことがわかった...、というように結論を導くズルである。この場合、なぜ、禿げの数だけ有意さがあったのか、他の項目ではなぜ差がなかったのか、その両方を合理的に説明できる理論を展開しない限りは、我田引水・願望思考型のインチキ実験だと言われてもしようがない。

 もうひとつ、先日のTV番組では、プロ野球の優秀選手の血液型比率をとりあげていた。それによると、優秀投手の血液型には偏りがなかったが、優秀打者について調べてみたところ、最多本塁打、生涯通算安打、生涯通算打点のTop10は、いずれも殆どがB型とO型であったという。1つならともかく、本塁打、安打、打点のどれをとっても偏りがあるのだから、これこそ、血液型人間学が正しいことの証明だ、と考える人も多いかもしれない。しかし、ここには少なくとも3つないし4つのトリックが潜んでいる。この答えは、次回のお楽しみということにしておきましょう。
 [正解が分かった人は、長谷川まで解答をお送りください【受付終了】。この続編で、お名前(ペンネーム可)を紹介させていただきたいと思います。締め切りは日本時間6月22日正午までです。]
 ところでこのシリーズも5回目を迎えた。明日は、日曜日なので、いったん休憩して別の話題をとりあげたいと思う(ひょっとして日記読み日記? ドキッ)。血液型性格判断の続きは、月曜日以降を予定している。

970620(金)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(4)
 初めに、昨日の「病院問題」の解答から。正解は小病院である。“サンプルが小さいと比率のバラツキが大きくなる”というのが統計の基本法則だ。じっさい、どのくらいの確率で、男の子が6割を超えるか計算してみると、15人の小病院では、おおむね15%、45人の大病院では、おおむね9%という値が出てくる(但し、これらは、毎日の出生数が、きっちり15人あるいは45人である場合の値。実際には、例えば小病院の場合、5人とか20人という日もあるので、そのバラツキの度合いによって多少値が変わってくる)。
 この問題は、けっこう易しそうに見えるが、カーネマンたちの調査では、解答者50名のうち正解を出したのは10名だけで、28名はどちらの病院もほとんど同じ、12名は大病院であると答えたという。このように、サンプルのサイズの問題は、直感的には捉えにくい現象であることがわかる。言い換えれば、人々は、比率の大きさだけに注目しやすい。サンプルが10人でも50人でも、ほんらい半々になるものが6割に達していれば、同じ程度に奇妙な偏りがあると錯覚してしまう傾向があるのだ。
 総理大臣経験者、大相撲横綱、オリンピック金メダリスト、ノーベル賞受賞者・・・こういう人々の血液型の偏りは興味深い話題であろう。しかし、これらの該当者はもともと人数が少ない。人数の少なさを無視して比率の偏りばかりに目を向けさせるところに、血液型性格判断のトリックの1つがある。
 同じ比率でも、ある比率が予想より大きいとか小さいという判断なら、我々の目はまだ確かだろう。しかし血液型の場合には、もとの比率が4:3:2:1というように複雑になっている。こういう比率の偏りは、カイ2乗検定という方法で統計的に検定することができる。とはいえ、カイ2乗検定は、暗算ではできない。ちょっと見ただけで、それが意味のある偏りなのか、それとも偶然なのか、直感的に判断することは殆ど不可能だろう。

970619(木)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(3)
 きょうは、このタイトルの第3回を書くことにするが、書いているうちに、これはホントウに日記なのだろうか、と段々疑問に思ってきた。この日記は、自分の考えたこと、新しく知ったことを1日1題だけ書き記して、自分自身を更新しようという目的で書き始めたものであるが、こういうことばかり書いていると、他人を更新させることを目論んだ「日記」になりかねない。まあ、しかし、これを機会に、血液型性格判断についての自分の考えをまとめるのもよかろうと思う。
 さて、昨日の日記で、
  1. これは遊びなのか、まじめな話なのか
  2. まじめな話だとすると、科学的に実証されているのか
  3. 真偽は別として、なぜ多くの人が“当たっている”と思うのか
  4. 真偽は別として、なぜ、もてはやされるのか。
  5. 血液型性格判断は、社会にとってプラスになるのか、弊害をもたらすものなのか
  6. そもそも、人間を理解するということは、性格を知ることなのだろうか

という6つの枠組みを提案したが、今日はこのうちの3番目について論じることにしたい(おやおや、これでは、日記ではなくて講義の始まりだ。こんな所までやってきて、単位ももらえないのに私の話を聞いてくれる奇特な方がおられるとは、まことに有り難いことだ)。
 で、逃げられる前に、クイズを2つほど解いてほしい。まず、次の表を見ていただきたい。 この表は、いくつかの職業でO型者がどのくらいの割合を占めているのかをまとめたものである。比率に偏りがあると言えるだろうか

職業別のO型者の割合?
職業>調査人数>O型の人数O型比率(%)>
国会議員11_1_9%
小説家21_943%
歌人151171%
漫画家13_323%
歌手21_629%
俳優16_425%
落語漫才231253%
司会者16_319%


 血液型性格判断資料集の血液型別の性格特徴の表を参照すると、O型の特徴は、大まかで、行動的で大胆でスキンシップを大事にし、親切で陽気で気前がいいということらしい。すると、歌人や小説家にO型者が多いのは、物事を大まかにとらえることが、独創的な短歌の制作に必要だから。また、落語家・漫才師にもO型者が多いのは、陽気であることが成功の秘訣であるため。国会議員や司会者に少ないのは、大まかさが裏目に出るためなどと、容易に「解説」することができる。
 しかしじつは、上の表は、パソコンでランダムに作り出した比率データにすぎない。もちろん職業の割り当てもランダムになっている。パソコンではO型が選ばれる確率は31%になるように設定してあるが、調査サンプルが少ないと、こういう見かけ上の偏りが出やすい。ところが、血液型性格判断が正しい、と思いこんでいると、そこに何らかの意味があるように錯覚してしまうのである。
 さて、もうひとつ、カーネマンとトゥベルスキーが1972年の論文で論じた「病院問題」を紹介しておこう。これは、次のような内容であった。
 ある町には、二つの病院がある。大病院では毎日約45人、小病院では約15人の赤ん坊が生まれる。当然ながら、約50%の赤ん坊が男児である。しかし、正確には、男児の出生率は日によって異なっており、50%より高い日もあれば低い日もある。ところで、一年のうちで、60%以上が男児だったという日の数は、大病院と小病院とではどちらが多いだろうか。(訳文は、市川伸一『確からしさの判断』[市川伸一・伊東祐司編:認知心理学を知る、1993年]による)

 この答えは、明日のこの日記に記すことにしたい(おやおや、日記のはずなのに、宿題まで出してしまった)。
※“職業別のO型者の割合?”の表は、“長谷川芳典 (1994). 目分量統計の心理と血液型人間「学」.詫摩武俊・佐藤達哉(編) 現代のエスプリ324『血液型と性格 その史的展開と現在の問題点』,pp. 121-129. ”から抜粋したものである。


970618(水)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(2)
 6月15日放送の「検証! 血液型性格のウソ・ホント」の内容のうち、子供のしつけ方や勉強のさせ方についての記事を血液型性格判断資料集のほうに追加した。このほかに、血液型別ダイエット法とか、靴の脱ぎ方、コンビニでのお釣りの受け取り方などの話題があったが、キリがないので、このぐらいにしておこう。
 さて、血液型と性格の問題は、次のような枠組みで検討する必要がある。
  1. これは遊びなのか、まじめな話なのか
  2. まじめな話だとすると、科学的に実証されているのか
  3. 真偽は別として、なぜ多くの人が“当たっている”と思うのか
  4. 真偽は別として、なぜ、もてはやされるのか。
  5. 血液型性格判断は、社会にとってプラスになるのか、弊害をもたらすものなのか
  6. そもそも、人間を理解するということは、性格を知ることなのだろうか

 以上のような構成で、この問題を論じることにしたいが、残念ながら1回で完結させられるほどの時間的余裕がない。
この日記は、毎晩、寝る前に書くことにしているが、最近は、家族の相手をせずに日記ばかり書いているので、妻に“あなたバッカじゃないの。心理学とか言っているけれど、本当は、日記の相手しかできないんでしょう! そうやって一生が終わっちゃうのよ。おバカな人生!”などと怒られている。
そこで今回は、1.と2.についてだけ、簡単に述べることにしたい。
 まず、1.であるが、今回のテレビ番組は、NHKの教養番組ではなく、娯楽番組の1つであった。私がケチをつけると、制作者は面食らうかもしれない。日常会話で血液型を話題にするのも、もちろん遊び心からくるものであろう。しかし、遊びと本気は、そう簡単に使い分けられるものではない。今度の番組でも、意図はどうあれ、子供の教育方法まで話が及んでいた。そこから何らかの差別が生まれる可能性だってある。“血液型と性格”を遊び半分で話題にすることは危険であると言わざるを得ない(誰かの日記を批判しているわけではない。念のため)。
 つぎに2.については、結論ははっきりしている。科学的には何も実証されていない。この一言につきる。この説はもともと、古川竹二氏によって唱えられたものであるが、彼の調査方法は、“この血液型にはこういう特徴があると言われているが、当たっていると思うか”というような誘導質問的な内容を含んでおり、信頼性がない。その後、旧陸軍を中心に本格的な調査が行われたが、何も成果をあげることなく衰退した。戦後の能見父子のデータは、正確なデータが公表されていない。能見俊賢氏は、読者アンケート(能見父子の本に添付されていた読者カード)を集計したなどと言っているが、愛読者の多くが、著者の主張を支持する方向で回答するのは当然のことである。このほか、血液型の構成比率に偏りが見られるとされる“データ”の多くは、サンプルサイズが小さく、偶然に生じた可能性が高いものばかりである(サンプルサイズの問題は、後日、もういちど取り上げたい)。
 データの曖昧さは、統計的検定だけの問題ではない。それ以前の問題として、性格的特徴を表す言葉が、厳密な定義なしに、雑多に使われている。血液型性格判断資料集の表を見てもらえばわかるが、どのようにも解釈、こじつけができる言葉ばかりだ。
 以上、血液型性格判断は、まじめな話であるが、科学的には何も実証されていない、というところで今日の話を終わる。


970617(火)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(1)
6月15日の夜、「検証! 血液型性格のウソ・ホント」という番組があった。関西テレビ系の『発掘!あるある大事典』である。仕事がら、こういう番組の内容には敏感に反応せざるをえない。月曜の夕刻に、録画したビデオを再生し、一時停止などを繰り返しながらメモをとっていった。時間があまりないので、今日のところは、番組の概要と、いくつかの資料を引用するにとどめる。番組内容についての疑問や反論は、この続編に掲載することにしたい。
 まず、今回の番組の全体的な構成を述べる。番組では、血液型とは何か、血液型人間「学」のルーツは何か、ということを型どおりに紹介していた。全体としては、血液型人間「学」に好意的な内容であると判断された。娯楽主体の番組ではあるが、阿部進氏の監修の「血液型別の子供の育て方」やアメリカで人気という「血液型別ダイエット法」を紹介するなど、明らかに、遊びを超えて実生活に影響を及ぼすような内容を含んでいた。
 番組で取り上げられた主な内容は、次の通りであった[6/17暫定版、子育て法については、後日、血液型性格判断資料集のほうに、追加予定]。
  1. 番組スタッフが500人に調査したところ、血液型と性格が関連あると思う人は72%、“ない”18%、“わからない”10%という比率になっている。
  2. 埼玉県行田市の太井(おおい)保育園では週に2回、血液型別縦割り保育というのをやっている。
  3. 動物や植物にも血液型がある。例えば、ウシはみんなB型。
  4. 民族により血液型比率に違いがある。
  5. プロ野球選手では、投手の血液型比率には偏りはないが、有名打者は殆どがB型とO型。
  6. 血液型別の性格特徴をまとめると、次の表のようになる。

    血液型一般的印象カラオケボックスでの行動遊園地での子供の行動合コンで見られる対人性金銭感覚
    几帳面、慎重、平和控え目、世話好き、人をたてるおとなしい、慎重サービス精神、几帳面、平和几帳面、消費性大
    マイペース、独創的、好奇心マイペース、面白い、好奇心好奇心旺盛、無鉄砲マイペース、無愛想、面白い計画型、合理的
    大まか、行動的、スキンシップ陽気、あけっぴろげ、積極的大胆、行動的親切、大まか、スキンシップ運用型、気前がいい
    AB二面性、冷静、合理的自分に忠実、趣味性高い、傍観的冷静、気ままソツない、冷静、イヤミ生活力、計算高い
  7.  上掲の保育園園児に、血液型ごとのグループに分けてスイカを食べさせた。残った皮の部分を比較すると、A型:赤い部分が残らないようにきっちり食べる、B型:食べ残しが目立つ、O型:大まか、AB型:きれいなものや雑なものが目立つ、という結果になった。
  8.  同じく、保育園児たちに木からサクランボの収穫をさせたところ、AB型のグループのみが、赤いサクランボと黄色のサクランボを両方もぎとった。他の血液型は、赤しかとらなかった。保母さんは、AB型は「芸術的才能があるため」と説明していたという。
  9.  茨城県警が6000人を対象に調査したところ、A:スピード事故、B:交差点、O:夜間事故、AB:居眠り、がそれぞれ多いという結果になった。
  10. ある保険会社の調査によれば、

    事故の型事例総数A型O型B型AB型
    追突28231.928.720.219.2
    交差点出会い頭21942.526.026.0_5.5
    交差点右折時_8144.529.614.811.1
    車線変更_6333.338.114.314.3
    歩行者に対する人身事故_7258.329.2_8.3_4.2
  11. 最近、アメリカで血液型別のダイエット法を書いた本が売れている。
  12. 現在わかっている血液型をすべて組み合わせると、血液型が完全に一致する確率は943億分の1になる。



970616(月)
[社会]人知れず微笑まん

 昨日6月15日は父の日であったが、私のような古い人間は、6.15と言えば真っ先に『人知れず微笑まん』のことを思い浮かべてしまう。
 私は、あの当時はまだ小学校2年生だったが、世の中の様子は小学生でも察知しており、“デモごっこ”という遊びまであった(スクラムを組んで、“安保反対”とか“安保賛成”とか叫びながらぶつかり合う単純な遊びであった)。このように私自身はまだガキであったわけだが、樺美智子さん初め、あの当時の学生たちは、きっと純粋に、日本の将来を案じていたに違いない。ただ、当時の全学連主流派幹部は、国会突入にあたって右翼の黒幕や公安当局と連絡をとりあっていたと伝えられている。学生も結局、治安対策の口実に利用されただけであったのかもしれない。
 私自身が直接関わりをもったのは、その10年後の70年安保。私は高校生に成長していた。安保改訂の問題のほかに、ベトナム反戦運動や大学紛争、さらには高校紛争というものまであって、私の出身高校でも、校舎内にバリケードが築かれ、最終的に38人の処分者を出した。私自身は、担任教官の配慮もあって処分を免れたが、学校の外では、清水谷公園から日比谷公園までのベ平連のデモに何度か参加したことを覚えている。また、あの当時、新宿駅西口の地下では、うたごえ集会というのがあった。私も何度か参加して、“友よ、夜明け前の闇の中で...”という歌を歌ったものだ。
 あれから20数年がたち、世の中はずいぶん変わってしまった。安保反対から容認へと態度を変えた政党もある。“アメリカは番犬”などと失言した与党政治家もいたが、本音として、自前の軍隊を増強するよりはアメリカ軍を“リース”しておいたほうが自国民の人的負担が少なくて済むと考えている人も少なくないのだろう。
 ベトナムも大きく変わった。最近のベトナムとアメリカとの交流をみていると、なぜあんなに血を流さなければならなかったのか、何のための戦いだったのか、さっぱりわからない。
 大学も大きく変わった。『友よ』という歌には、“夜明けは近い”という歌詞が出てくるが、いったい夜明けとは何だったのか? 今は、夜明けになったのか、正午なのか、夕方なのか、これもなんだかよくわからない。少なくとも、学生がデモをするなどという風景は全く見られなくなった。学生の手による大学改革の動きなど皆無に近いし、教官も自分の論文を書くのに忙しくて、主体的に大学改革には関われない。文部省の方針に沿って、教養部廃止、業績評価点検、任期制導入などが着々と進んでいる現状だ。
 イソップの寓話に『北風と太陽』の話がある。いま思えば、ベトナムであれほど血を流さなくても、東南アジアが共産化する恐れはなかった。ソ連を「北風」で倒すことはできなかったが、「太陽」が自然に崩壊を導いた。学生運動がこれほど沈滞化したのも、別段、弾圧が行われた結果ではない。やはり「太陽」の効果であろう。大学改革も同じだ。文部省の方針に沿った改革をすれば特別の予算が配分される。餌をねだってシッポをふる犬とちっとも変わらないような気もするが、かといって建設的な代替案を提案できるほどのエネルギーは、いまの学内には無い。


970615(日)
[社会]夫婦別姓
 6月14日のスクラップブックで、すでに夫婦別姓の民法改正案のことを取り上げたが、よく考えてみると、改正賛成論と反対論以外に、2通りまたは、それ以上の代案があるということがわかった。
 まず、現行の民法は、結婚して新しい戸籍を作る時に、夫婦は夫または妻の姓いずれか1つを名乗らなければならない、というものであった。また、別姓論というのは、結婚しても、夫婦は、結婚前と同じ姓を名乗ることができる、つまり結果的に夫婦が別姓のままであることを許容しようという改正案であった。
 では、これ以外には、どういうケースが考えられるだろう?。論理的には、夫婦が共に改姓して1つの姓を名乗るという案、夫婦がそれぞれ改姓して別々の姓を名乗るという案が可能である。例えば、鈴木という男性と田中という女性が結婚して、“鈴田”か“中木”という姓を名乗るというのが前者の案、鈴木さんが“木鈴”、田中さんが“中田”というように、それぞれ姓を変えるのが後者の案である。後者の案は、ほとんど無意味で何のメリットもないが、前者は、それなりに意味のある制度ではないかと思う。
 前者の案を第3案と呼び、もう少し考えてみよう。もういちど確認すると、第3案とは、婚姻に基づいて新しい姓を考案して名乗ることを許容するという案である。第3案が認められると、例えば“句林頓(くりんとん)”とか“名保麗恩(なぽれおん)”というように、奇をてらった姓を届け出てくる夫婦が出てくることを危惧する人々がいると思う。しかし、これは、子供が生まれた時の命名と同じことをするだけであるから、たぶん大した問題にはならないだろう。まあ、出生届けと同じレベルの常識判断で役所が受理していけばよい。(そう言えば、子供に“悪魔”という名前をつけた出生届けを役所が受理しなかったというようなニュースがあったように記憶しているが、あれはどうなったのだろうか?)
第3案に対して、今回の参考人はどういう態度をとるか思考実験してみる。別姓反対論者(民法改正反対論者)のうち、一番目の参考人である長谷川三千子氏は、新聞報道に記載された論拠で別姓に反対しているのであれば、この第3案には表向き反対できないはずである。いっぽう、賛成論者は、結婚に伴って改姓を強要されることの不利益を主張しているわけだから、反対せざるをえない。
 しかし、たぶん予想とは逆で、別姓反対論者の多くは第3案には反対し、賛成論者の多くはこれに賛成するのではないか、という気がする。というのは、反対論者の本音は、たぶん日本の伝統的な家制度を重視する立場から反対しているので、新しい姓を考案するなどということは到底受け入れられないはずだ。いっぽう、賛成論者は、法律は多様な価値観を容認すべきだという原則論が根底にあるから、別姓のままで改姓を強制することにも反対だが、男女が共に改姓して同一姓を名乗りたければそれも許容するという立場をとるだろう。ここに、もうひとつの議論の軸がある。
 今回の民主党提出の民法改正案は廃案となる可能性が高い、と言われているが、今後は、改姓のメリットやデメリットを掲げるという表向きの議論とは別に、法律はどこまで多様な価値観を許容できるか、という原則論に立ち返った議論が必要になってくると思う。これは臓器移植法案の議論でも同様である。
 最後に、上記以外に考えられる案をもう一つ。それは、姓を廃止し、本人固有の名前だけを戸籍簿に登録しようというものだ。これは日本の伝統文化に反する超過激な提案だと思われるかもしれない。しかし、よく考えてみれば、国民全員が姓をもつようになったのは、確か、明治以降のことではないか。

970614(土)
[一般]赤い色は強い嫉妬や攻撃の象徴か?
スクラップブック6月10日の記事で、小6殺人事件の犯人が、赤い色に執着しているのではないか、との記事を紹介した。その中で、“赤色には、強い嫉妬や攻撃の念が読みとれる。犯人が常軌を逸して赤に執着しているとすれば、幼少時代からいじめに遭い、守ってくれる人のいない環境で育った人物が他人をねたみ、社会や教育に反撃したい気持ちを秘めたまま成長したなどの状況が想像できる。”といった色彩心理学者のコメントが紹介されていたが、私には、赤がそんな悪い色だとは思えない。たまたま、子供の本棚に、『世界の国旗』(森重民造著、偕成社、1988年)があったので、国旗の中で、赤い色が何を象徴しているのか、いくつか調べてみた。但し、出版年が古いので、いまでは国旗が変わっている国もあるかもしれない。  たしかに、独立のために流された血を表す意味で赤をつかっている国もあるが、(国旗である以上、当たり前と言えば当たり前だが)、赤を不吉な意味に用いることはない。
 なお、昨日、国語の先生に、日本語の「あか」の意味を尋ねてみた。やはり、これは「あかるい」という所から来ているようで、不吉な意味はなく、逆に、古来からめでたい色、位の高い色として用いられることが多いようだ。

970613(金)
[心理]「日記な人」的パーソナリティ?(その1)
一昨日、“「日記な人」的パーソナリティ”という言葉を聞いた。この表現がどのくらい一般的な言葉になっているのかどうかは、わからないが、私にはどうも納得がいかない。
そもそも“「日記な人」的パーソナリティ”と言うからには、たとえば日記猿人に登録している人に共通のパーソナリティ特性があることを証明しなければならない。先日も書いた通り、私はついこのあいだまで、“BOWDO”という日記は、似たような発音の“ばうわう”という人が書いているのだろうと思い込んでいたぐらいで、“日記界”のことはあまり知らないが、 という事実をあげるだけでわかるように、執筆者のパーソナリティは千差万別、とうてい共通の特性があるなどとは思えない。
 日記を毎日更新する人は、“継続性がある人、根気強い人、几帳面な人”などと言われる。それは正しいし、そういう意味での共通性はあるかもしれない。だが、“継続性”とか“根気強い”とか“几帳面”というのは、日記を毎日更新しているという特徴を表す記述表現の1つであって、“毎日更新をする”行動の説明概念ではない。
 こういう例をあげればよいだろう。砂漠にサボテンが生えていたとする。サボテンは、乾燥や寒暖の差に強い植物であると言われる。この場合、“乾燥や寒暖の差に強い”というのは、サボテンの共通の特徴であるかもしれないが、サボテンがそこで生育している原因を説明したものではない。その場所が砂漠化し始めた当初には、乾燥や寒暖に弱い植物も生えていたはずである。それらは枯れ果て、結果的にサボテンが残ったのである。
 あるいは、こんな例でもよいだろう。“生物は、なぜ子孫を増やすのか?”当たり前ではないか。子孫を増やさない生物や、減らす生物がいたってよい。だけど、そういう生物は増えないのだから、存在しなくなるのが当たり前だ。
 日記更新も同じである。日記をつけ始めるという行動は、だれでもできる。しかし、途中で止めてしまう人は、当然更新しない。更新リストに名前を連ねないのは当然のことである。
 要するに私が言いたいのは、日記を継続するという行動の原因は、“継続性”、“根気”、“几帳面”という特性にあるのではない。もっと別のところにあるのだ。私はそれを、行動随伴性に基づいて説明したいと思っている。
 と、ここまで書いたところで(この日記は、日付をつけた日の前の晩に書いているのだが)、妻が話しかけてきたので、書き終わるまで待ってくれと言うと、“あなた、バッカじゃないの。彗星見物が終わったと思ったら、今度は毎晩、日記ばっかり書いていて...。”と怒りだした。その後何が起こったかは御想像に任せるとして、あとは後日に続く。

970612(木)
[一般]なぜ、デジカメが必要?
 日記猿人の1行コメントに“こんなものいらない:デジカメ”などということをうっかり書いたら、たぶん、デジカメファンからたくさんの抗議が来ることだろう。しかし、私は率直に言って、今の時点で、なぜデジカメが必要なのか、よくわからない。
 まず、私が“続彗星日記”などに写真を載せる方法について述べれば、これらはすべて、プリント写真をスキャナで読み込んで画像ファイル化したものである。カメラは20年前に質屋で当時12000円で買ったペンタックス。スキャナは、Canon IX-4015、画像処理ソフトはSuperKid95という構成であり、いま流行のデジカメは一切使っていない。しかし、それで不便は感じていない。
 デジカメのメリットはどういうところにあるのだろう。私が知り得た限りでは、(1)フィルム代やプリント代がかからない、(2)簡単に画像として取り込めること、(3)撮った直後に画像が見られる、(4)写真屋には見せたくない秘密の写真が撮れる、という4点が、大きなメリットであるように思う。このうち(4)については、私はそういう趣味はないので初めから除外し、(1)〜(3)の妥当性について考えてみたい。  旅行先にノートパソコンを携帯してWeb日記の更新をする、というような特殊な使い方をする人は別として、少なくとも、日常生活写真を撮って画像に取り込むという使い方をする限りにおいては、デジカメを買うよりは、スキャナを買ったほうがよい、というのが現在の私の考えだ。
 なお、本日の記事は、私が自分の公用HPでもともと「こんなものいらないコーナー」を企画していたことに関連して述べてみたまでのことであって、他の方のWeb日記の内容に対する“日記よみ日記”の意図は一切ない。念のため。

970611(水)
[心理]ビハーラ病棟
昨日のS短大の授業で、『ビハーラ病棟』(正式なタイトルは『故郷いのちの日々:長岡ビハーラ病棟の1年』)のビデオの一部を紹介した。この番組は4-5年前に、NHK特集として放送されたものである。(だいぶ昔の番組なので現在のことは全くわからないが、いちおう現在形で書くと)、この病棟は、新潟県長岡市の長岡西病院の中にある。余命あと何ヶ月と宣告された末期癌の患者さんたちが、人生の最後のひとときを有意義に過ごすために作られた、日本で最初の病棟として紹介されている。ビハーラというのはインドの言葉で“安らぎの場所”というような意味らしい。病棟の中には仏像がまつられていて患者さんたちは、毎日ここに集う。但し、宗教だけで苦痛を和らげるわけではない。むしろ、過度の延命治療はしない、患者がやりたいことができるような場を提供する、家族との交流を大切にし、本人が希望すれば短期の帰宅をサポートする、といった別の面に大きな特徴がある。
番組では4人の患者さんが登場する。そのうち、胃癌が肺に転移した大工さんは、体調のよい日に、病院の木工室でベンチを作る。長岡市では夏に盛大な花火大会が開かれるが、その時にこのベンチを病院の屋上に出して、それに座って花火を見るというのが、その人の最期の夢であった。その後、大工さんは、ついにベンチを完成する。体調が悪く、実際にはベンチに座れなかったが、移動用のベッドの上で満足のいくまで花火をながめ続けていた。そして夏の終わりに亡くなった。
もう1人、板前さんも印象に残っている。この人は、苦労の末、東京の大井町に夫婦で小さな店を開くが、奥さんに先立たれてしまう。その後自分も末期の膵臓癌となって、この病院に来る。番組では、この板前さんが、体調のよい時に医師に付き添われて東京に戻り、近所の商店街の人々と語らう場面や、病院の看護婦や医師のために自慢の腕を振るって料理を作る場面を紹介していた。皆に、おいしい、おいしいと言われた時に見せた笑顔がとても印象的であった。そして、この患者さんも、その年の暮れに亡くなった。
このビデオは、行動随伴性の意味を説明する授業の中で紹介している。大工さんにとってのベンチ作り、板前さんにとっての料理こそ、“行動し、その行動に内在した結果を得る”ということの本質ではないかと考えているからである。
それは、それとして、ビハーラ病棟は、その後どうなったのだろうか。いちど、検索エンジンで、長岡の病院を紹介しているサイトを見つけた時に問い合わせてみたことがあるが、長岡西病院自体は、インターネットには接続していないとのことだった。終末医療とか脳死とか介護保険の問題が議論されているわりには、このビハーラ病棟がどうなったか、また、同じような病棟が全国に広まったのかどうか、その後の進展が報じられていないのは残念なことだ。もう1つ、あの番組で多少気がかりだったのは、入院費用がどのくらいかかるのか、報じられていないということであった。1人の患者さんが東京に戻るために主治医が同行するとなれば、相当の負担になるのではないだろうか。となると、いくらああいう病棟が増えても、金持ちだけしか利用できないことになってしまう。
どなたか情報をご存じでしたら、長谷川までお教えいただければ幸いです。

970610(火)
[天文]前回は4500年前、次回は何故2400年後?
新聞やテレビでヘールボップ彗星のことが紹介されるたびに、ずっと疑問に思っていたことがあった。それは4500年ぶりに地球にやって来た、と言ったかと思えば、2400年後までさようなら、などと言う。ふつう、惑星でもハレー彗星でも、同じ周期で太陽の周りを回っているはずなのに、なぜ、こんなに違いがあるのかどうしてもわからなかった。きょう購入した『天文ガイド』7月号を読んで、ようやくこの謎が解けた。要するに、太陽以外の惑星の引力の影響を受けて、離心率が変化することが周期を大きく変える原因になっているということらしい。ヘールボップ彗星や百武彗星のように軌道が放物線に近いと、離心率のちょっとした差が周期の値を大きく変えるのだ。興味深いのは、ハレー彗星でさえ、周期に変動があること。紀元前239年からの歴史文書を調べると、76年きっちりではなくて、長いときで79.3年、短いときで76.0年というように変化があるということであった。

970609(月)
[園芸]白いオダマキ
6月8日の“続彗星日記”に白いオダマキの写真を掲載したが、このことで、ある出来事を思いだした。
私は、人の顔と名前を一致させるのをひどく苦手としており、何年か前に、学生の顔と名前を、大学構内に咲いている花のイメージと結びつけて覚えようとしたことがある。たとえば、Hさんはフランスギク、Sさんはコンボルブルス、Nさんはハナワギクといった具合である。極秘に結びつけている限りは問題なかったのだが、つい、当人にこのことをしゃべってしまう。そんな中で、何かの雑談の最中に、ある女子学生のことを、白のオダマキの花にぴったりだ、と言ってしまったことがあった。私としては、清純で快活そうなイメージから連想しただけのつもりだったが、その学生は、なぜか、その後、私の所にはあまり研究の相談に来なくなった。
ある時、偶然に、この花の花言葉を見て驚いた。何と、“不品行”とか“愚劣”という、とんでもないことが書かれてあったのである。あの学生が相談に来なくなったのは、たぶん専門的な興味が別の方向に向かったためであろうと信じているが、もしや、花言葉のために傷つけてしまったのではないかと、いまだに悔やまれる。それ以来、教室の学生の顔と名前を花のイメージに結びつけて覚えるなどという、軽はずみな行為はきっぱり止めた。
ただ、これだけは言っておきたい。花言葉が何であろうと、美しい花は美しい。花のイメージは、個人の中で形作られるものだ。上掲の写真にはラベンダーも写っているが、こちらも、“疑惑”、“不信任”という花言葉がある。となると、この写真は、“不品行”と“愚劣”と“疑惑”と“不信任”を表す写真ということになってしまう。そんなバカなことがあるか。私にとっては、白のオダマキは、あくまで清純と快活の象徴だ。

970608(日)
[一般]平成教育委員会2
先週に引き続いて、この番組(土曜日夜)で自分を更新した。特に興味深かったのは、金(きん)の話。有史以来の採掘量は、オリンピックプール2杯分にすぎない、とか言っていた。国内での用途Top10は、1.装身具、2.私的所有、3.電気・通信機械、4.金メッキ、5.歯科医療、6.陶磁器、7.美術工芸品、8.時計、9.万年筆、10.勲章・記章。この大部分は、リサイクルがきくので、無駄にはならないだろう。私がいちばん無駄な使い方だと思うのは、金粉入りの日本酒、あるいは金粉をふりかけたケーキなど。いくら理由をつけたところで、結局は、排泄されて、二度と回収されない。あれほど無駄なものはない。
番組では、早大生10人の正答率というのを紹介していたが、小学生でも分かるような問題の正答率が3割とか4割では、まったく情けない。タレントが間違えるのは、半分ヤラセだろうと思っておもしろ半分に見ているが(タレントが視聴者以上に正解ばかり出していたら、その番組を面白がって視る人は、そんなにいないだろう)、大学生がマジで、あの程度しか答えられないとしたら、中・高教育に問題があると言わざるを得ない。

970607(土)
[一般]ミニ四駆は四駆?
このところ、毎週木曜日の夜は家族全員でTVチャンピオンを視ている。私の日記でも何度か話題としてとりあげたことがあるが、この番組は、視るたびに何かしら自分の更新に役立つものを残してくれる。
一昨日のタイトルは「親子ミニ四駆選手権」であった。番組では、現在ミニ四駆の販売台数は1億3000万台となり、国民全員が1台ずつ持っていることになると言っていた。ところが実は、私はミニ四駆の実物を見たこともさわったこともない。ラジコンカーと同じものかと思っていたが、だいぶ違うらしい。ラジコンカーは、人間の手で操縦はできるが、ミニ四駆は自分で曲がることもできない。壁つきの専用コースを走る、モーターつきの模型であることが、最近になってわかった。
行動分析学の視点から見れば、熱中しやすい趣味は、自分の行動に何らかの結果が随伴する仕組みになっているはずだ。ミニ四駆の場合は、市販の模型を改造する、という行動に対して、レースの結果が随伴する、ということが主要な行動随伴性を形作っているのではないか、とみた。まあ、それはそれとして、父と子が同じことに熱中するのは、ほほえましい。
もっとも連覇を達成したチャンピオンへのインタビューの時、息子さんは、「お父さんは父ではなく仲間だと思っている」とか「ミニ四駆は、お父さんに勝つことができる趣味だ」というようなことを言っていた。とすると、父はただ利用されているだけで、自分が父を超えた時点で、たちまちその存在価値がなくなってしまう、という危険性もある。
最後に、私にはいまだ、ミニ四駆の意味がよくわからない。四駆というからには、四輪駆動でなければならないはずだが、いくら何でも、ああいうコースを通るのは四輪駆動では無理だろう。では、四輪駆動車のミニチュアなのだろうか。これも知識がないのでわからないのだが、ミニ四駆の形はレーシングカーに似ている。とすると、レーシングカーも四輪駆動だっただろうか。私の印象では、スピードを出すだけだったら二輪駆動のほうが速いように思うのだが...。
私のあまりの無知に呆れておられる方も多いと思いますが、どなたかご存じでしたら、長谷川までお便りいただければ幸いです。

970606(金)
[一般]偽ボランティア?
昨日の昼過ぎに、私の研究室に、目のうつろな若い男性が突然入ってきた。国連NGOの団体だが、ウガンダで難民救援活動をするので寄附をしてください、と言う。写真入りの身分証明書、その団体の印刷物、販売用のコーヒーのような食品、ハンカチなどを持っている。
そう言えば、以前にも全く同じようなものを持ってきた若い女性がいた。但し、その時は福祉施設を援助する団体(『野の花会』)だと言っていた。
さらに昔、私が大学院生時代にも、京都の下宿に目のうつろな若い女性がやってきたことを思いだした。この時は、肢体不自由児の施設から来たと言っていた(この時ばかりは、私もてっきりその言葉を信じて、当時のお金で500円を寄附してマスコット人形を買ってしまった)。

それにしても、3つの団体は全く別の組織であるはずなのに、身分「証明」書といい、販売品といい、髪型といい、服装といい、何から何までそっくりだ。そして皆口を揃えたように、福祉やボランティアをアピールする。その割には、目がうつろで、何かにとりつかれたような気配。しぐさもマニュアルに従っているような感じで、自主的で柔軟な受け答えができず、心の底からの笑顔も見せない。
さらに奇妙なのは、私がその正体を確かめようとしていろいろと質問すると、急に表情が変わり、そそくさと帰ろうとすることである。本当にボランティアで活動しているのなら、自分が参加している団体のことを疑われたら、何はさておき必死に弁護につとめるはずではないか。
男性が帰ったあとで、念のため、マインドコントロール関係の本を調べてみた。やはりあった。『国際友好救援協会(IRFF)』。テロル(日記テロルどころではない)が怖いので実名は控えるが、霊感商法や合同結婚から連想するもの、と言えば、それで事足りるだろう。
【上記の記事に関して、反論がある場合は、御自分のHPにそれを掲載してください。私宛の直接のメイル、電話、手紙、訪問等は、固くお断りします。】

970605(木)
[情網]1行コメントにタグを使うことについて
【おことわり。本日は、日記猿人の参加者むきの内容です。】
6月4日更新のいけがわさんの“タグの閉じ忘れについて”の記事を拝見し、1行コメントにFONTタグを使うということについて、ちょっと考えてみた。新作Top200や、得票数リストを眺めると、1行コメントに色をつけたり、文字を大きくしたりする人が多い。色をつけることぐらいは、個性を出すためのファッションの一種かなあ、と余り気にならないが、文字を大きくしたり点滅させたりするのは、ちょっと目障りな気がする。
このようにして文字を目立たせる人は、自分の日記をぜひとも読んでもらいたい、という方に違いない。しかし、その効用は本当にあるのだろうか。
下の表は、5月の得票ランキングを100位ごとに分け、上「位」者と下「位」者の間で、1行コメントにFONTタグを使用している比率に違いがあるかどうかを調べたものである。なお、便宜上、同数得票者についても、日記猿人のリストに従って、100人ごとにどちらかに割り振ってある。また、私がディスプレイを見ながら数えただけなので、多少の誤差はあるかと思う。【上位、下位を、上「位」、下「位」としたのは、順位が日記の価値を決めるものではないことを強調したためである】

5月のランキング別にみた、FONTタグ使用比率
順位彩色文字のみ使用彩色文字に加えて
大きいサイズ、斜体、点滅文字を
使用したもの
1位-100位21%_5%
101位-200位20%13%
201位-300位11%_3%
301位-376位10%_4%

この表を見る限り、上「位」であるほと、FONTタグの使用比率が多いとは言えない。1位から50位までを見ても、文字を彩色している方は20%、サイズを大きくするなどさらに目立つ工夫をしている方4%となっていて、比率は変わらない。むしろ、101位から200位のあたりのほうが、大きいサイズのコメントをつけている人が多い。
以上のデータから、少なくとも200位以上の人にとっては、FONTタグを使用したからと言って、それだけで読み手が増えることはない、と考えてよさそうに思われる。
ところで、201位以下になると、多少比率が下がる。これは、おそらく、201位以下の方は、あまり日記を更新されていないのではないか、あるいは、人に読んでもらうことよりも、(日記を毎日つけることを)他の人の前で宣言する目的で登録している方が多いためではなかろうかと思う。

初めてリストを見た人に限れば、目立つ文字は、注意をひきつけるに違いない。しかし、同じ人の日記を繰り返し読むという行動は、あくまで、日記の質的内容に依存して強化されるものだ。目立つ文字や、おやっ?と思わせるような見出しをつけていても内容がなければ、“狼が来た”と叫ぶ羊飼いの少年のお話と一緒で、誰からもクリックされなくなってしまうだけだろう。

<ここからは余談>私は、つい最近まで、“BOWDO”という日記は、(発音が似ているので)“ばうわう”という人が書いていると思い込んでいた。それほどまでに、“日記界”には無知であったわけだが、実はこのところ、1日に10人ほどの方の日記を拝見するようになっている。
私は、基本的には、公用HPのTOPページにも記したように、“インターネットは、現実の世界に関わる者が、より有意義な関わりを求めて情報を交換する所である”と考えている。“BOWDO”やその他の“日記よみ日記”も日記執筆動向を知るための貴重な情報源として意義深いと思うが(と、おだてておいて、テロルは勘弁してもらおう)、やはり、現実世界との関わりを綴った日記に、いちばんの魅力を感じる【これは、あくまで私個人の好みを書いているのであって、それがいいとか悪いとか批評しているわけでは決してない。念のため】。
さいきん、“foo@okayama-u.ac.jp”からの投票が増えたとお感じの執筆者がおられるかもしれない。岡大には14000人以上の学生・教官が在籍しているので、すべて私というわけではないが、少なくともその一部は、私がそれを読んで感動したことへのささやかなお礼だと思ってほしい。
ところで、よく話題になる“ばうわう”さんの各種日記だが、私のところでは、平日はめったにアクセスできない。1画面を読み込むのに5分以上かかってしまい、途中で強制切断されることも多い。稀にアクセスに成功する時もあるが、1行コメントの内容とそのページの内容がぜんぜん一致していないと、がっかりしてしまう【これも、私の個人的な感想であって、執筆者に何かを要求するものではない。念のため】。

970604(水)
[一般]遠藤青汁と24時間科学者
昨日(6月3日)の新聞に、遠藤仁郎氏が2日午前0時20分に老衰で亡くなられた、という記事があった。遠藤仁郎氏といっても、ご存じない方が殆どであろう(実は私も、この記事を読んで初めて知った)。で、どういう方だったかと言えば、戦時中の43年、栄養不足を克服するため青菜のしぼり汁を考案した人。戦後、「遠藤青汁の会」を発足させて普及に力を入れ、会員は全国に約10万人を数えるという。
私自身は、この「青汁」を飲んだことはないし、ここで宣伝するつもりもない。ただ、この方が97歳で亡くなられたということを知ると、あるいは御自分でも毎日青汁を飲まれ、その成果が御長命につながったのではないかと考えてみたりする。
いっぽう、だいぶ昔に、某健康食品(現在は販売されたいない模様)が“癌の予防効果あり”と宣伝されたことがあった。その創始者の方は、確か50代で癌でお亡くなりになった。まあ、何事にも個体差はあるだろうから、こちらのほうの健康食品がインチキであると言うつもりはないが、創始者が長生きしないと、何となく信用できないという気持ちになる。
前置きが長くなったが、大学でも、理屈ばかりこねているくせに、自分では何も実践できていない教官というのが、いるらしい。例えば、教育学部関連の科目で、“こうすれば、生徒の関心を高め、やる気を起こさせることができる”などと熱弁を振るっている教授の講義が、じつは全く面白味がなく、大半の学生は居眠りをしているなどという話を聞くと(岡大の授業ではない、念のため)、若くして癌で亡くなった某健康食品の創始者との類似性をついつい考えてしまう。
同じような皮肉として、英文学の教授は英会話がヘタだ、とか、地理学の教授は方向音痴だ、あるいは心理学の教授は性格が歪んでいるうえにいつも悩みを抱えている、などという話がある(いずれも、岡大の教授ではない、念のため)。私自身、もし将来、自分の息子に金属バットで殴られたり、あるいは娘が不登校になってしまったら、同じような批判を受けることになるのだろう。
もっとも、理屈を教えることと、その理屈を実践することは、本質的に異なっているから、多少の不一致があったからといって、直ちに自責の念にとらわれる必要はないと思う。実際、名選手が名監督になれるわけではないし、将棋の名解説者が名人戦に挑戦できるわけではない。経済学者が、株で大儲けしているという話も聞かないし、アクションゲームの開発者がそのゲームでハイスコアを取ったという話も聞かない。あまり堅苦しく考える必要はないのだろう。
ただ、私個人としては、仕事の時間は心理学者、仕事が終わったら普通の人間、という、いわゆる“9時5時科学者(午前9時から午後5時までの間だけ科学者になる人。Neuringer, 1981, Behaviorism, 9, 79-94.)”にはなりたくない。行動随伴性の視点から自己理解や生きがいを考えよう、と主張する以上、それは私の生活全般にも適用されるものでなくてはならないと思う。そういう意味で、自分の日々の行動にどういう結果が随伴しているのか、その随伴性はビルトインされたものなのか付加的なものなのか、ということを“24時間心理学者”として点検し続けていきたいと思っている。

970603(火)
[園芸]何が咲くかわからない楽しみ
私の所には、毎年、6月と11月に3つの種苗会社から花の種のカタログが届く。大和農園、サカタ、タキイで、いつもこの順に配送されてくる。今年は、いまのところ、大和農園とサカタからのカタログが届いている。
普通は、写真を見て、これは欲しいという品種を注文するわけだが、これはある意味では空しい。どんなに丹誠込めて育てても、カタログの写真以上のものは作れないし、失敗することも多いからだ。
3-4年前だったと思うが、タキイのカタログに、“カラーコーディネータ”という名前の、色別に多数の種類の種を混合したものが紹介された。この種の面白いところは、どういう花が咲くのか、色以外はまったく予測がつかないことである。
最初の年に、白と青を買ってみた。その後、カタログでは紹介されなくなってしまったが、東京神田神保町のタキイの支店、あるいは京都駅前のタキイ本社の売店などを訪れ、ピンク、黄色、オレンジというように、毎回、異なる色を買い揃えていった。この続彗星日記のページで紹介している花の中にも、この混合種の中から毎年、増えていったものがたくさん含まれている。未だに名前がわからないものも多い。
最近では、道路沿いの花壇、植物園の花壇などでも、数種類の花を混植したものが流行っているようだ。上に紹介した、種の混合セットはそういう、お花畑を作る楽しみもある。ただ、種苗会社としては、あまり積極的に販売したがらないようだ。(私もそうだが)これに夢中になってしまった人は、たぶん単品の種を買わなくなり、結果的に苗も種も全く売れなくなってしまう恐れがあるからだろう。
<補足>6月7日に配達されたタキイの最新カタログには、“カラーコディネーター”が掲載されていた。各色、それぞれ945円。

970602(月)
[心理]犯人推理、当てにならない“専門家”
何かの犯罪が起こると、マスコミはこぞって精神科医や心理学者や推理小説家の解説を求める。しかし、シャーロックホームズが実在していたならともかく、そんなに正確に推理できるわけがない。解説がもっともらしく聞こえるのは、犯人が捕まってからのこじつけにだまされているためである。
このトリックの仕組みは、次のような手品師の事例で理解できる。ここに、1、2、3の数字が書いてある3枚のカードがあったとする。手品師は、1のカードを左上のポケットに、2のカードを右下のポケットに、3のカードをズボンの後ろのポケットに、予め隠しておく。そして、観客の1人に、「1〜3の数字のうちどれか1つを思い浮かべてください。それは、どの数字でしたか?」と聞く。もし、観客が「2です」と答えたら、右下のポケットを指さし、ここに私の予想したカードがあるので取り出してください、という。もちろん、そのカードには大きく「2」と書いてある。それで、観客は、手品師が、読心術ができるものだと錯覚してしまうのである。
しかし、こういう「推理」は、事実がすべてわかってからのこじつけにすぎない。犯罪事件に関して言えば、犯人が捕まる前に、その正体を細かく推理できてこそ、本物の「説明」と言える。
かつての幼女連続殺人事件の時に、“今田勇子”の名前の“告白文”が送りつけられてきたことがあった。まだM容疑者が捕まっていない段階で、この今田勇子の犯人像を推理した資料がある。この段階では、こじつけができないので、結果的には事実と無関係であったような予測がいっぱい生まれてくる。以下は、著名な精神科医、犯罪心理学者、推理小説家などが、犯人が捕まっていない段階で推理した内容の抜粋である。如何に、いいかげんな推理をしているかがわかる。
きょうのテレビ欄を見たら、午前中の奥様向け番組の話題の大部分が小6殺人事件に関するものであった。新たな犯行の防止や犯人逮捕に結びつく情報提供であれば大いに結構であるが、上記のような、“専門家”による根拠に乏しい「推理」で視聴率を稼ぐような取り組みであるのなら止めてもらいたいところだ。

970601(日)
[一般]平成教育委員会
このところ、毎土曜日に遠出していたので、この番組は久しぶりだった。国語の略語テストでは、「動燃(動力炉・核燃料開発事業団)」、「燃費(燃料消費率)」、「コギャル(高校生ギャル)」、「ミニ四駆(ミニチュア四輪駆動)などを間違えてしまった。社会では、第一次大戦の時に使用した防毒マスクのフィルタからティッシュペーパーが考案されたというのが意外であった。もっとも、あれが売り出されたのはいつからだったろうか。少なくとも、私が子供の頃は、出回っていなかったように思う。