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じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 11月上旬の連休の時、孫たちと一緒に岡山後楽園・岡山城のボートに乗った。桃ボートとスワンボートに分乗し、私は桃ボートのほうのペダルを漕いだ。桃ボートは3人乗りで1600円、スワンボートは4人乗りで1800円となっていた【いずれも20分間】。

 ここのボートの特長は何と言っても岡山城を旭川の水面から間近に見上げられることにある。一度乗りたいとは思っていたがなかなか機会が無く、今回が初体験となった。

 なおスワンボートについては、以前チコちゃんの番組で取り上げられたことがあった

なんで日本中の池や湖にスワンボートがあるの?

2025年11月11日(火)


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【小さな話題】3か月でマスターする古代文明(3)モヘンジョダロの謎(2)/遺跡や出土品が残る条件

 11月9日の続き。

 前回の日記の終わりのところで、

ビーズは各都市の特産物【モヘンジョダロ(石材のチャート)、ハラッパー(鉱物)、カ-リーバンガン(木材)、ドーラ-ビーラー(紅玉髄の原石)】などと交換されながら都市のネットワークのみを行き来したため、富の集中が起きないような仕組みになっていた。

 このように富の集中が起こらなければ、階層も生まれにくい。さらに軍隊のような武力支配の装置が無ければ王様も存在しえないように思える。とはいえ、街中で争いごとや犯罪が起こった時には裁判所や警察が必要になるだろうし、大規模な工事を計画・実行するためには何らかの指導者(たち)が必要になるだろう。「王や権力者が居なかった」という証拠を並べるだけでなく、王や権力者に代わるどのようなシステムが都市国家を維持していたのかを証拠に基づいて説明していかなければならない。

 放送では、文字の刻まれた印章、おもり、ビーズの3点セットがどのように使われていたのか、より詳しい説明があった。
  • 印章:
    • 下に動物の絵、上に2~5文字が刻まれている。何かの情報を伝えるハンコであったと推測
    • メソポタミアで出土した『封泥(ふうでい)』は私有財産の概念が生まれた証拠と考えられているが、インダスの印章のほうは身分証の役割もあった可能性がある。
  • ビーズ:
    • 都市では紅玉髄(カーネリアン)のような半貴石でビーズを作っていた。
    • 出土した女性土偶の首飾りなどからアクセサリーとして使われていたと推測。
    • おもりや印章とセットで出土していることから、お金として使われていた可能性もある。
  • 従来、インダスの都市では紅玉髄製ビーズなどを特産品としてバンバン輸出していたと言われてきたが、外国からは殆ど出ていない。このことから、メソポタミア相手の交易ではなく、インダス地域の都市間の交易のほうが比重が高かったと推測される。


 もしモヘンジョダロという1つの都市だけであればそこに富が集中するが、インダス平原には都市が各地域に散在していてそのような集中が起こりにくかった。つまり、インダスの都市は、個人やひとつの都市に権力が集中しないようにするための都市であった、と解説された。
 小茄子川さんは、さらに、
もし彼ら【インダス】が富を求めて都市を造ったのであれば、違った文明の形になっていたはず。たぶん王様も出てきたであろうし、もっともっとメソポタミア化していたに違いない。しかしそういう痕跡は一切ない。メソポタミアの情報を都市のネットワークだけに閉じ込めて、自分たちは「都市は作るが危険なものには触れない」ようにした。
と論じた【要約・改変あり】。

 なお、紅玉髄などの高価なビーズは主にインダスの都市の間だけでやりとりされ、地域社会の小さな集落からはほぼ出土しておらず、代わりにステアタイト(柔らかい材質の石材)で作られたビーズが出土している。都市が誕生する以前から地域社会にはステアタイトのビーズなどを使う経済があったと推測される。
 地域社会の経済とメソポタミアとの接触で始まった都市の経済はそれぞれで回り、都市が地域社会を従えるような上下関係にはならなかった。
 さらに小茄子川さんが注目しているのはインダスの都市の立地であった。モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリーバンガン、ドーラービーラの4都市はいずれも地域社会の中心ではなく端のほうに造られていた。インダスの都市は様々な影響から地域社会を守るために造られたと論じられた。

 ここでいったん私の感想・考察を述べる。何度か述べているように私自身は2023年11月にパキスタン南西部を旅行したことがあった。今回言及されていた「地域社会の小さな集落」そのものは今では存在しないが、どのような大地、どのような気候のもとで人々が暮らしていたのかは、ある程度想像ができた。やはり現地に行ってみることは大切。
  • 2023年12月30日(6)カラチからモヘンジョダロ(1)自然風景よりもトラックが見もの (4)
  • 2024年1月11日(13)ゴーラクヒルを目ざす(1)洪水の爪痕、途中の村の賑わい
  • 2024年1月13日(14)ゴーラクヒルを目ざす(2)レンガ製造所
  • 2024年1月24日(22)偉大なる大河インダス川


 放送に関して疑問として残ったのは、出土品からの推測の妥当性である。そもそも遺跡というのは、何らかの特殊事情によって後の時代の工事や造成の影響を受けずに残されたものであって、それぞれの時代の生活ぶりをそっくり残しているわけではない。
 とりわけ宝石などの装飾品や貨幣などは後の時代に発見された後に元の地中に戻されることはない。なので例えば紅玉髄製ビーズが出土していないと言っても、その場所でビーズが使われていなかったのか、それとも持ち主が移住する際に持ち去ったのかは断定できない。ということもあり、遺跡がどのような理由でそこに残されたのかを見届けないと、出土品の有無だけでは断定できないように思う。
  • その場所が洪水や火山噴火で一瞬のうちに埋め尽くされた場合:タイムカプセルのようにそっくり残る。
  • 他国の侵略により滅亡した場合:貴重なものは略奪されるので残らない。
  • その場所での生活が困難になり集団で移住;貴重なものは持ち去られるので残らない。
  • その場所で後の時代の人々が住み続ける:時代の流れとともに道路や建物が造り替えられるため、遺跡としては残りにくい。


 次回に続く。