じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 4月19日に続いて『ショウドシマレンギョウ』の話題。
 前回とは別の場所の花を接写したが、こちらもまた『長花柱花』であることが確認できた【写真左】。
 この木のすぐ隣にはヤマトレンギョウがあり、『短花柱花』となっている【写真右再掲】。ヤマトレンギョウの花粉がショウドシマレンギョウの雌しべに受粉するのかどうかは不明だが、写真左のように蜘蛛(ウロコアシナガグモ?)がガードしている限りは受粉できないだろう。


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2024年4月21日(日)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「ハトが平和の象徴として広まった理由」

 4月19日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。

 この日は、
  1. ハトが平和の象徴として広まったのはなぜ?
  2. 缶飲料にスチール缶とアルミ缶があるのはなぜ?
  3. 雑誌の日付が未来になっているのはなぜ?
という3つの話題が取り上げられた。本日はそのうちの1.について考察する。

 さて、鳩の話題だが、放送では、「ピカソがハト好きだったから」が正解であると説明された。松井裕美准さん&ナレーションによれば、
  1. キリスト教文化圏ではハトは昔から平和の象徴として認識されてきたが、文化や宗教を超えて世界中に広まったのは天才画家ピカソが描いた1枚の絵がきっかけであった。
  2. その絵は、ピカソが1949年に描いた『鳩』。ピカソの画風は前衛的なものから写実的なものまで幅広い。画家だった父親がよく描いていたハトに愛着があったピカソは生涯を通してハトを絵の題材にした。放送ではピカソが10歳で描いたといわれるハトのデッサンや、晩年88歳で描いた『近衛兵と鳩』が紹介された。
  3. ピカソは自分の娘にもスペイン語で「ハト」を意味する「パロマ」と名付けてしまうほどハトが好きだった。
  4. ハトが平和の象徴として広まったのはピカソの友人だった小説家のルイ・アラゴンがとった行動があったから。アラゴンは、第二次世界大戦直後の1949年、アメリカ・フランス・イギリスなど75か国の平和団体が集まり核兵器廃止を訴えた平和擁護世界大会の組織委員として中心的役割を担っていた。
  5. アラゴンはピカソにポスターの製作を依頼したが、ポスター印刷の期限が迫ったためにピカソのアトリエで『鳩』の絵を目にした。アラゴンはその絵を気に入りポスターに採用、パリの街中に貼られた。ポスターは評判となりその後も世界各地で行われた平和大会のポスターにピカソの描いたハトが頻繁に使われるようになりハトは平和の象徴というイメージが一般に定着していった。
  6. なお、ポスターに使われた「鳩」の絵は友人で画家のマティスが贈った本物のハトを見て描いたもの。
 以上が放送の内容であるが、あまりにもできすぎた話なので、念のためBingに尋ねたところ、以下のような回答をいただいた。
ハトが平和の象徴とされる理由はいくつかあります。以下に詳しく説明します。
1. **旧約聖書の物語**:
- ハトは、ノアの箱舟の物語で重要な役割を果たしました。洪水が起こった際、ノアは箱舟からハトを放ち、ハトがオリーブの枝を持って戻ってきたことで、陸地が現れ、神と人間の和解が示されました。このエピソードにより、ハトとオリーブは神と人間の和解のシンボルとなり、平和の象徴とされました2?.
2. **ピカソの影響**:
- 1949年にパリで開催された「第一回平和擁護世界大会」のポスターに、天才画家ピカソが白いハトを描いたことで、世界中にハト=平和の象徴というイメージが広まりました2.
3. **ハトの特性**:
- ハトは攻撃的でない鳥であり、穏和な外見と気質から「鳥類の羊」とも呼ばれています。その性格が平和のイメージを作り出していると考えられています3.

このように、ハトはキリスト教の信仰や芸術家の影響を通じて、平和の象徴として広まりました。123

(1) 【生活の雑学】どうしてハトが平和の象徴になった? | GakuSha. https://gaku-sha.com/life/symbol-of-peace.
(2) ハトはなぜ、平和の象徴となったのか - 山と溪谷オンライン. https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1896.
(3) 「ハトはなぜ平和の象徴?」の雑学(2023年8月更新) - 善ちゃんの .... https://www.science-show.net/post/hatonozatubaku.
(4) ハトが平和の象徴とされるのはなぜ? 旧約聖書 ノアの箱舟 .... https://www.advan-group.co.jp/times/hato_peacesymbol_reason/.
ということで、1.と2.は放送内容とほぼ同一であることが確認できた。




 ウィキペディアによれば、ピカソと『鳩』とのかかわりは以下のように記されている。
  1. 1949年1月9日、ピカソは、パリの版画家フェルナン・ムルロ(英語版)のアトリエで、モノクロのリトグラフ『鳩』を制作した。この作品は、白のアルシュ紙に5枚のアーティスト・プルーフと50枚のプリントで、ギャラリー・ルイーズ・レイリス(英語版)から出版された。
  2. このリトグラフに描かれている鳩は、ピカソの友人である画家アンリ・マティスから贈られたミラノ鳩である。
  3. ピカソの『鳩』のリトグラフは、1949年の世界平和評議会のポスターに使用された。この絵は、ピカソのアトリエを訪れたフランス共産党支持者の詩人ルイ・アラゴンが選んだものである。鳩は平和の象徴であると同時に、世界の共産主義の象徴となった。平和評議会が開かれる前日の4月20日、ピカソのパートナーであるフランソワーズ・ジロー(英語版)が4人目の子供を出産し、スペイン語で鳩を意味するパロマ(Paloma)と名付けられた。
  4. ピカソが描いた鳩のイメージは、世界中で平和の象徴として使用された。ピカソは1949年から亡くなるまでの間に、ポスター、版画、ドローイングなど数多くの平和の鳩を描いた作品を制作した。ヴロツワフ、ストックホルム、シェフィールド、ウィーン、ローマ、モスクワで開催された世界平和評議会では、この絵を元にしたものが使用された。平和運動によって世界中にこの絵が配布され、ピカソの名声に新たな風が吹き込まれた。
  5. ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、ホセ・ルイス・イ・ブラスコのことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごしたマラガの家で鳩を描いていた。1955年に南フランスのカンヌに移り住んだピカソは、自宅に鳩舎(英語版)を建てた。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた。
 今回取り上げられた『鳩』(1949年)は、リトグラフということなので何枚も刷られていると思われる。放送では、池田20世紀美術館所蔵となっていたが、リンク先の所蔵作品リストには含まれていなかった。いっぽう『近衛兵と鳩』は常設展示されているようだ。




 放送で言及された『平和擁護世界大会』は1949年4月に第1回大会が開催されているが、ウィキペディアに記されているように、冷戦当時に東側諸国(社会主義国)政府の主導で設立されたもので、日本からは日本共産党系の日本平和委員会が加入しているという。その歴史は、
  • 1949年4月、パリで平和擁護世界大会(World Congress of Partisans of Peace)の第1回大会が開かれた。冷戦が激化し始める中、フランス政府が東側諸国代表の入国を拒否したため、東側諸国の1国であるチェコスロバキアのプラハでも同時開催された。
  • 1950年11月16日-22日、ワルシャワで第2回平和擁護世界大会が開かれ、81か国から2065人が参加。冷戦下においてアメリカや日本、西ドイツなどの西側諸国と対峙するソビエト連邦やポーランド、東ドイツなどの東側諸国の強い影響を受ける団体であることから、日本と西ドイツの「再軍備」を非難したものの、東ドイツやポーランドの「再軍備」については触れずじまいであった。また、「世界平和評議会」の設置を決定し、核兵器使用禁止を求める「ストックホルム・アピール」を宣言し、その後5億の署名を集めた。

    【中略】
  • 1987年7月30日-31日、日本で世界平和評議会軍縮委員会。
となっているが、1987年以降の活動がどうなっているのかは不明。しかし活動が存続していたとしても、世界中の人類を動かすほどのパワーになっていないことは明白であり、運動形態にどこか根本的な問題があると言わざるをえない。

 ま、第二次大戦から2024年に至る79年間は毎年、世界のどこかで戦争が行われてきたが、人類を絶滅に追い込むほどの核戦争はどうにかこうにか回避されてきた。ソ連崩壊による冷戦終結により、もうこれで第三次世界大戦は起こらないかと思われたが、いまなお、ウクライナやパレスチナ・ガザ地区などいくつかの地域では戦闘が続いている。
 冷戦時代は、イデオロギーの対立が世界大戦を引き起こすと思われていたが、ソ連崩壊後の世界でも同じ規模の戦闘が起こっているところを見ると、戦争の原因はもっと別のところにあるようにも思える。
 平和運動は本来は宗教やイデオロギーの違いを超えた人類愛の精神に基づいて進められるべきかと思うが、上記の平和評議会の例にも見られるように、戦後の平和運動は少なからずイデオロギーの対立に振り回されてきた。そして、イデオロギーの違いが明確で無くなってきた現在においても、自国優先主義のもとに戦闘が続いているのは嘆かわしいことだ。

 次回に続く。