じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 県道の電光板に“4月7日「御神幸」のため渋滞の恐れ”という表示が出ていた。しかし、私には『御神幸』が何の行事なのかは分からず、渋滞の恐れといってもどこの道路が渋滞するのかさっぱり分からなかった。
 ネットで検索したところ、『神幸祭』は各地で行われているようだが、特に『御神幸』として知られるのは4月7日に宗忠神社で行われるこちらの行事であり、
  • 8:15 宗忠神社を出発
  • 9:55 清輝橋
  • 11:15 後楽園着
  • 13:15 後楽園発
  • 13:55 岡山駅前
  • 15:00 宗忠神社着
という予定で行われるとのことであった。「御神幸(ごしんこう)は、全国の信徒の中から選ばれた千人余りに及ぶ供奉者によって御鳳輦(ごほうれん)を中心に、協賛参加する民芸陣などを織り交ぜ、豪華絢爛、古式ゆかしい一大絵巻が展開される。」ということなのでかなりの規模のイベントであるようだ。
 これまでこのことを知らなかったのは、4月上旬は現職時代は新学期の準備などで日曜日も出勤することが多かったため、また定年退職後は妻の実家に帰省していることが多かったためと考えられる。今年は特に予定が無いので、電光板での縁もあり、どこかで見物させていただこうかと思っている。


2024年3月24日(日)





【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(20)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(4)オーウェル『1984年』

 3月23日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 放送では全く言及されていなかったが、『偶然性・アイロニー・連帯』では、第7章の『ロリータ』に続いて第8章『ヨーロッパ最後の知識人』でオーウェルの『1984年』(1949年刊行)が取り上げられているという。放送内容から外れるが、これを機会に備忘録として記しておくことにする。

 ウィキペディアによれば、この作品は、一般には、
出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じくオーウェルが著した『動物農場』やケストラーの『真昼の暗黒』などとともに反全体主義、反共産主義、反集産主義のバイブルとなった。また資本主義国における政府の監視、検閲、権威主義を批判する文脈でも本作がよく引用される。
として知られているようだが、ローティの視点はこれとは異なっていたようである。

 こちらの解説動画によれば、『1984年』は以下のように特徴づけられる。
  1. アイロニストがもたらす残酷さが描かれている本。
  2. 文化的なアイロニストは実在論の哲学者や常識を蔑視し、真理は作られると考えていたが、オーウェルはこれに対抗する人物として読まれてきた。しかしローティは違う捉え方をしている。ローティによれば、オーウェルは仮象をはぎとり実在を露わにすることをやったわけではなく、起こるかもしれないこと、実際に起こったことを描き直した。
  3. 作品に登場するオブライエンは無茶苦茶なことをするが、オーウェルは彼を気の狂った誤った理論に心酔した人とは見ていない。オーウェルはオブライエンを端的に危険なものであり同時に可能であるものとして見ていた。「オブライエンみたいな人物が生じうるのでは?」と私たちに思わせてくれることがこの作品の大きな貢献であるとローティは述べた。
  4. 作品の主人公ウィンストンは「2+2=4」だと信じていたが拷問に屈して「2+2=5」だと言ってしまった。ウィンストンが当初「2+2=4」を主張し続けたのは、もちろんそれが正しいと思っているからであるが、別の角度から言えば、合理的な説明を自分に与えるためであった。
  5. 「2+2=5」であると信じてしまうと、「2+2+2+2=8」であると自分が考えたことに辻褄が合わなくなってしまう。辻褄が合わなくなれば「整合した信念や欲求の網の目」を破壊され、「合理的な説明」を失い、自分を見失う。
  6. ローティは384ページのところで、
    2+2=4を強く主張することの必要についてウィンストンが書きとめた日記の文章は、オブライエンをいかに阻止するかについてのオーウェルの見解ではなく、むしろ事態が厳しいものとなったときに私たちが自分をいかに保つかについての記述として読める。私たちは他者に語りかけることによって、自分を保つ、すなわち、他者の前でそれを口にだして語ることによって私たち自身のアイデンティティを確かめ直そうとする。その際、私たちが望むのは、私たちが自らの信念や欲求の網の目を整合したものに保ちつづけるのを助けてくれる何かを他者が語ってくれることである。
    と述べている。私たちは自分たちの「信念や記憶や欲求」などを人々の間で調停することでそれが正しいと感じたり、「事実だ」と認識するのである。そして、何か自分の信念に揺らぎが生じれば、他者の前で語ることによって自分の信念の正当性を確かめようとする。
  7. 真理は合意や調停によってつくられる。正当化される。これがアイロニストの真理観。
  8. 『1984年』では、ウィンストンの「2+2=4」は他の人との合意を失っている。自分の「2+2=4」という記憶も、オブライエンが言う「2+2=5」という記憶も、どちらが正しいものであるか区別できない。オブライエンにも理解してもらえないことでウィンストンのアイデンティティは喪失し始める。
  9. ウィンストンはジュリアとはお互い裏切らないと約束していたが、101号室でのネズミが食らいつくという拷問を前にして、とうとうジュリアを裏切ってしまう。こうしてウィンストンの持っていた信念は完て破壊され、アイデンティティは完全に喪失した。

 解説動画によれば、オブライエンもローティも同じアイロニストという点で似ている。要するに、真理は発見されるのではなく作られる。人々の信念の整合的な合意が「真理」であると考えたり、人間の本性なるものなど存在しないと考えている点では共通している。リベラル・アイロニストと異なり、アイロニストは足を踏み外すときわめて残酷なことが起こる。第8章の『ヨーロッパ最後の知識人』というタイトルの通り、ローティはオブライエンをヨーロッパ最後の知識人に見立てており、リベラルな希望が終わる時にアイロニーがとることのできる唯一の仕方でアイロニーを体現する人物がオブライエンだと指摘しているという。『1984年』を読んだ人の中には「私はこんな風にはならない【←オブライエンのようにもウィンストンのようにもならない?】」とか「精神内面の自由がある」とか「私たちは自律的に生きられる」と思った人もいるかもしれないが、それらは幻想かもしれない。私たちは自由に思考できていないかもしれない。いとも簡単に自己のアイデンティティ、自律を失うかもしれない、こういった恐ろしさを教えてくれるのが『1984年』であると解説されていた。

 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私自身は行動分析学にどっぷり浸かっていることもあって、そもそも人間に絶対的な自由などはあり得ないと考えてきた。スキナーが言うように、われわれが自由だと感じるのは、行動が正の強化(好子出現の随伴性)で強化されているからであり、逆に嫌子消失の随伴性(逃避)、嫌子出現阻止の随伴性、好子消失阻止の随伴性で強化されているときは「義務的、強制的にやらされている」と感じる。また行動しても何も変わらない時は無強化や消去の事態となり「やってもムダだ」「もうダメだ」という無力感を感じる。とはいえ、これらは直接効果的な随伴性で行動が強化されている場合のことである。他の動物と異なり、人間はルール支配行動で行動を続けることもできる。そのルールは信念とも呼ばれることがあるが、ルールの内部が明らかに不整合であった場合、気まぐれのように見える行動をとる場合もある。

 ルール支配行動では、他者による称賛や激励が大きな役割を果たす。もちろん、自然の法則に反するような行動は結果として強化されにくく消去されてしまう傾向にあるが、中には迷信や風習のように共同体の中で正しいと信じられて受け継がれていくものもある。

 なお「2+2=4」か「2+2=5」かという問題は、共同体の中の合意や調停で作られるものではないと思う。指を4本立てた時に「これは4」、5本立てた時に「これは5」と定義した上で、両手で2本ずつ指を立てた時の本数を問われればやはり「4」だと答えるほかはない。もちろん、数学的にはペアノの公理のように体系化する必要はあるが、実用的に見たとしても、リンゴを5個欲しい人が1皿2個だから2皿あれば合計5個になると買い物したら1個足りないことに気づくのは明白であろう。おそらく(リベラルでない)アイロニストの残酷さというのは、実験・観察あるいは史実だけではなかなか反証できないような主張、例えば国家観とか幸福感のようなものを言うのではないかと思われる。

 次回に続く。