じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 昨日も述べたが、3月20日(春分の日)の岡山は、晴れたかと思えば突然強い雨が降り出すといった不安定な天気であった。午前中、傘を持たずに半田山植物園にウォーキングに出かけたところ、園内で突然雨が降り出し、慌てて温室内に逃げ込んだ。
 温室内の椅子に座って雨が止むのを待っていたが、もともとせっかちな性分であるため、最初のうちは早く止まないかなあとイライラしていた。しかしよく考えてみると、隠居人の私にとっては、この場所で1時間、2時間と待たされたとしても、その後に何か約束や締め切りを抱えているわけではなく、何も困ることは無かった。
 この先、要介護で寝たきりになったとしたら、むしろ、こういう温室のような場所で過ごすことが理想的な一日になるのかもしれないとふと思った。そう考えてみれば、温室に「拘束」されたのは『理想の雨宿り』体験であったのかもしれない。
 なお、気象庁のデータが示す通り、10時20分から降り始めた雨は11時頃にはいったん降り止み、濡れずに帰宅することができた。


2024年3月22日(金)





【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(18)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(2)理論とシンパシー、ロリータ

 3月21日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 放送ではローティの唱える『感情教育』について、

感情を動かしたり、他人(ひと)の苦痛や残酷さに対してのシンパシーが何よりも大事。どんなに理論があっても、感情が無ければそもそも理論が機能しない。

というように意義づけられた。伊集院さんからも、

理論は分析には役立つが、辛いさなかの人は分析してほしいわけではないし、分析するということはしようがないということに近い。

とコメントがあり、朱喜哲さんからも、

理論的な分析は現状の構造を分析するので、ある意味ではすごく残酷。こうなった必然性について考えるが、それって本当にその時に要るのか? クリアに分析したって役立たないし、そこでの苦痛の叫びに対して何も返してあげられない。

と補足された。確かに、
  1. 大地震や津波の被災者に対して、その地震がどのようなメカニズムで発生したのかということを理論的に説明しても何の役にもたたない。
  2. がん患者に対して、がんがどのような原因で発生し、どのようなメカニズムで転移したのかを理論的に説明しても、患者の苦痛や不安を和らげることにはつながらない。
といったことは言える。心理療法においても、当事者の不安の原因を理論的に説明すれば不安が取り除かれるわけではない。エビデンスに基づく有効なセラピーを確立することは大切だが、だからといって、じっさいのセラピーが客観的に定義された用語だけで実践されなければならないわけではない。セラピーはあくまで当事者にとって馴染みがあり当たり前だと思っている言葉を使用し、その人に適した言語体系のもとで対話を進めていく必要があると思う。認知症の場合も同様であり、当事者が過去と現在を混同していたとしても、その間違いを正すのではなく、過去と現在が融合した世界に適した言葉で語り合う必要がある。

 文学作品は、他人の苦痛や残酷さに対するシンパシーを喚起するだけではない。自分の内側にある残酷さに目を向けさせる力もある。その一例として『ロリータ』(1955年、ウラジーミル・ナボコフ)が取り上げられている。

 放送で紹介されたのは、『ロリータ』のほんの数行の一文であり、ローティの第三部第7章のタイトルにもなっている『カスビームの床屋』であった。
 カスビームでは、ひどく年配の床屋がひどくへたくそな散髪をしてくれた。この床屋は野球選手の息子がどうのこうのとわめきちらし、破裂音を口にするたびに私の首筋に唾を飛ばし、ときおり私の掛布で眼鏡を拭いたり、ふるえる手で鋏を動かす作業を中断して変色した新聞の切り抜きを取り出したりして、こちらもまったく話を聞き流していたので、古くさい灰色のローションの壜が並んでいる中に立てかけてある写真を床屋が指さしたとき、その口髭をはやした若い野球選手の息子が実はもう死んでから三○年になるのを知って愕然としたのであった。 (『ロリータ』新潮文庫 p376)。
 この数行は『ロリータ』の主人公ハンバートが少女と過ごした際の美しい描写とは対比的に描かれている。一度読んだだけでは気づきにくいが、作中の舞台が1949年であったことから床屋の息子はその20年前の第一次大戦で戦死し、床屋はその時の癒えぬ傷をかたっていたこと、「私の掛布で眼鏡を拭いたり」という描写は実は涙を拭いていたのだということが読み取れる。しかしハンバートはそのことには気づかず、自分の視点だけから不快感をあらわにしていた。ちなみにナボコフは、上掲の一文を考えるために1カ月かかったと、他のところ【←新潮文庫の後書きに収録されている で書いているという。
 上掲の記述は、「人は無関心なものに対してこれほど冷淡になれてしまう」、そして読者に「自分もハンバートのように思っていたかもしれない」と気づかせてくれる効果をもたらしている。ローティは、

ここでの道徳的なものとは、少女に手を出すな、ということではなく、自分がおこなっていることに気を留め、とりわけ人々が言っていることに気を留めよ、ということである。【齋籐・山岡・大川訳】

と論じた。




 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、こちらの解説動画によれば、『偶然性・アイロニー・連帯』の中では、『ロリータ』ともう1つ、オーウェルの『1984年』が取り上げられているとのことであったが、放送では『1984年』については特段の言及はなかった。『1984年』には『補遺 ニュースピークの原理』があり以前から興味を持っていたが、オーウェル『1984年』については以前『100分deメディア論』ですでに取り上げられていたせいか、今回は割愛されたようである。

 上掲の解説動画でもふれられていたが、『カスビームの床屋』の一文は『ロリータ』の中心的エピソードであるようには到底見えない。しかし、ナボコフ自身は、「カスビームの床屋をはじめ、いくつかの場面は、この小説の中枢神経である」と述べているという。私自身は『ロリータ』を読んだことがないし、孫娘が4人もいるなかで書棚に『ロリータ』の本などを置いていたらとんでもない誤解を受ける恐れがあるため、この先購入する予定も無い。いずれにせよ、私自身は共感性に乏しく、興味のない対象に対しては徹頭徹尾無関心であり、『ロリータ』を読んで気づくまでのこともない、という気もする。