じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルを訪れた時にみかけた銃弾跡と「1993年を忘れるな!」と記された石碑。2015年9月撮影。なお、ウィキペディアによれば、1993年のモスタルでの戦闘は、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で行われたようである。
↓の記事参照。


2024年3月20日(水)





【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(16)第3回 言語は虐殺さえ引き起こす(3)「人間」と「非人間」の線引き

 3月19日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 前回取り上げた、ルワンダ共和国でのツチ族大量虐殺の分析はローティの孫弟子にあたるリン・ティレルによるものであった。続いて紹介されたのはローティ自身が言及した1992年ボスニア紛争であった。死者は20万人にのぼるとされ、ヨーロッパではホロコースト以来とも言われる大規模な虐殺が行われた。放送によれば、この紛争は、旧ユーゴスラビアの解体にともない、セルビア系住民、クロアチア系住民、イスラム系住民の3つの民族が勢力圏をめぐって対立したことが発端であった。特に犠牲となったのがボシュニャク人であり、セルビア人によるジェノサイドや強姦が行われた。

 ローティは『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(1998年、中島・松川訳)の中で、
セルビアの殺人者たちや強姦者たちには、自分たちが人権を侵しているという意識がないのです。彼らはそれを自分たちと同じ人間にではなく、「ムスリム人」に対して行っているのですから。彼らは非人間的なことをしているわけではなく、ただ本当の人間とにせの人間とを区別しているだけなのです。
 当時、多くのセルビア人には、ボシュニャク人は自分たちと同じ人間だという概念が無かった。「理性があるのが人間だ」と主張する人にとっては、家畜は理性がないから殺傷しても致し方ない存在ということになる。それと同様に、人間に本質というものがあるとすれば、自分と同じ本質を持っていない相手は人間ではないと線引きされる。こうなると「人間には誰でも人権がある」と定義されていても「人間でない者には人権がない」ということになってしまう。ローティは、人権という概念は紛争の抑止や解決には役立たず、むしろ残虐さをよりいっそう拡大する危険があると結論づけた。

 ローティは、トマス・ジェファソンについても言及しているという。ジェファソンは、基本的人権などをうたった独立宣言を起草し1801年にアメリカ第三代大統領に就任したことで知られているが、そのいっぽうで自分が使用している奴隷に何人もの子どもを産ませるという非人道的なこともやっていた。基本的人権を普遍的な権利だと主張するいっぽうで大量の奴隷の権利を踏みにじることができたのは、「人間」と「非人間」の線引きがあったためであり、「人間」に対しての温かさや基本的な思いやりと「非人間とされた者に対しての冷淡さや残酷さ」は矛盾無く同居してしまう。要するに「人権はどうやって基礎づけるのか」という哲学的探究も役に立っていない。こうした問題の背景には「本質主義」がある。何かしらの本質的な違いによって「私たちは人間だけとあっちは違う」と言えてしまう、と解説された。




 ここからは私の感想・考察になるが、まず、放送ではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争については、セルビア人による虐殺やレイプがあったことは事実だが、それ以外にも複雑な要因が絡んでおり、セルビア人だけが残虐というわけでもなさそうだ。私が現職の頃、セルビアからの留学生が在籍していたことがあったが、その学生はNATOによる空爆の残虐さを訴えていた。また、ボシュニャク人とクロアチア人の間でも戦闘が行われたようである。ラトコ・ムラディッチラドヴァン・カラジッチは現在ではいずれも終身刑に服役中ということであるが、内戦の結果しだいでは両名とも自国の英雄になっていた可能性もある。いずれにせよ、虐殺行為の背景には、ローティが指摘したような「人間」と「非人間」の線引きがあったことは間違いない。

 放送では言及されていなかったが、大航海時代、ヨーロッパ人たちが南米大陸を征服した際にも先住民に対する残虐な行為が行われた。これもまた、「人間」と「非人間」の線引きが背景にあるのだろう。ナミビアで行われたドイツによるヘレロ族の虐殺も忘れてはならない。

 広島や長崎への原爆投下を肯定する米国人の意識にも、日本人あるいはアジア人たちは自分たちは違うという暗黙の線引きが関係している可能性がある。
 さらに、2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件においても、犯人は被害者に対する線引きを行ってた可能性が高い。

 こうしてみると、確かに、本質主義を前提とした人権論では、差別や虐殺は防ぐことが難しいと言えるかもしれない。

 次回に続く。