じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 3月2日、岡山から山陽道経由で北九州に向かう途中、車両火災事故のため、大竹−岩国間が通行止めになってしまった。大竹IC出口付近で2kmの渋滞があるということだったので、1つ手前の大野ICから一般道に出て岩国ICに出たが、すでに渋滞が生じており、一般道区間だけで1時間半ほどかかってしまった。
 けっきょく、通行止めは16時頃に解除されたそうなので、結果的にはどこかのSAで待機し、一般道に迂回せずに通行したほうが速かったかもしれない。もっとも宮島SAの窓口で尋ねた限りでは、いつ解除になるかは不明であった。
 写真は大野ICを出たあとで左手に見えた瀬戸内海。いつもの高速道経由では見られない景色。


2024年3月5日(火)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(8)第1回 近代哲学を葬り去った男(3)対蹠人
 2月29日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 第1回の放送の半ばでは『哲学と自然の鏡』の内容に基づき、『対蹠人』による思考実験が紹介された。ローティは、代表的な哲学者一人一人を批判したが、『対蹠人』はデカルト(1596−1650)批判の中で挙げられたアイデアであるらしい。
 デカルトは、確かなものとは何かを確認するために方法的にいろいろなものを「疑う」。すると、疑っても疑っても、疑っている私は無くならない。そういった「疑っている私」が存在している、心などの疑い得ない何かがまずあって、この確実なものの上にいろいろな知識を積み上げていけば「確かな知識」というものを考えることができると論じた。これに対してローティは「デカルトの心は真理に至っていない」と証明するために『対蹠人(たいせきじん)』という思考実験を論じた。概要は以下の通り。
  1. あなたは『対蹠星』を訪れた哲学者。そこには地球人と殆ど変わらない『対蹠人』が住んでいた。
  2. 対蹠人には、心にまつわる言葉や、『心』という概念が無い。代わりに、脳の状態について語る。
  3. 例えば「(このバラの花は)赤い」という代わりに「ニューロン束G14が振るわされている」と述べる。
  4. ある日、バラの刺が指にささった対蹠人が「いま、脳内の新繊維が刺激されている」と言った。あなたは「それを『痛い』と言うのだよと説明した。すると彼らは、「言い換えの法則は分かったが、結局『痛み』ということ自体が何かなのはやはり分からない。」と言い返した。対蹠人は「痛い」ということを語っていたのだろうか? それとも全く違うことを言っていたのだろうか。
  5. ローティはこうした思考実験に基づき、
    一方では「地球人は自分には感覚があると思っているが、実はないのだ」という対蹠人(中略)であり、他方では「対蹠人には感覚があるのに、そのことに彼らは気づいていない」という地球人の哲学者。(中略)
    というように両者を比較し、この袋小路を抜け出る道はあるのだろうか、と問題提起した。
 伊集院さんはこれについて、

ボクが黄色と呼んでいる黄色は彼が黄色と呼んでいる色と同じに見えているかどうかは分からないけれど、ボクも彼も「この色と同じ信号の色では注意しなければならない」と分かっていれば、別に生活をしていく上で何の問題もない。

朱喜哲さんは

「地球人は心があると言っているが本当は無いんじゃないか」という地球人の主張と、「対蹠人は言葉を使っていないだけで、本当は痛みを分かっているはずだ」という対蹠人の主張はどこまでも平行線をたどっており、これは原理的に調停できない。ここで大事なポイントは、「心は何か?」という問いを建てれば問題事が発生するということ。通常のコミュニケーションであれば「こういう状態のことをこう言っているので、こういうことにしておこう」としておき、みんながいちいち科学的に吟味しなければ何も困っていないんじゃないですか、というのがローティの発想のスタート地点。

と解説された。伊集院さんはこれについて、

必要ないものをわざわざ「ある」という証明をしようとしたり、「ある」という共有をしようとしているからややこしくなっているだけ、というのはかなり大胆な否定ですよね。

とコメントされた。朱喜哲さんは、

【ローティによれば】デカルトは自分の問題に即して、『心』という言葉づかいや『心』という概念を発明したんじゃないか? 誰もに元々あるものを発見したわけではない。

以上をふまえて、私たちの時代に何をすればよいのかを新たに提唱したのが、今回の放送で取り上げられた『偶然性・アイロニー・連帯』であったという。




 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私は文学部3回生の頃には、当時教育学部に着任されたばかりの河合隼雄先生のユング心理学の講義を聴講させていただいたこともあったが、心とか意識を説明概念に用いることはどうしても納得がいかず、ハトを被検体とした選択行動の実験で卒論を提出して以来2018年3月に定年退職するまでずっと徹底的行動主義の考え方を貫いてきた【←『方法論的行動主義』ではない。念のため】。なので、上掲の『地球人vs対蹠人』に関しては、『心』を説明概念として前提にしないという点では地球人よりも対蹠人に近いかもしれない【もっとも行動の原因を脳に還元する立場でもない。念のため】。

 でもって私の立場から言わせてもらえば、対蹠人の思考実験は以下のように解釈できる。
  1. 「(このバラの花の色は)赤い」という時の「赤い」というのは、特定の波長の光に対する反応。色覚を持つ動物であれば、人間以外でも「赤いランプが点灯した時にAという行動をすればBが出現する」といった弁別学習ができる。伊集院さんがコメントされた「黄色の信号は注意」も同様。
    本来「色」は可視光線の波長の長さに対応した量的特性であるが、ある種の動物は複数の種類の受容器で光刺激を受容するため、質的に異なる感覚を生じるようになる。そのようになったのは、熟した果物を見極めたり繁殖上のメリットがあったため。
    人間の色覚は圧倒的多数が3色系であるため、赤・青・緑やその混色に対しては同じような弁別をすることができる。しかし2色系あるいはそれ以下の受容器を持つ人では弁別が困難な色もある。またヒンバ人のように、一般人とは異なる色覚体系を持つ人たちもいるらしい。また稀に4色系の人もいる。当然、色の見え方は変わってくる。
  2. 色は弁別刺激となるほか、特定の色と無条件刺激が対提示されることで条件刺激にもなりうる。例えば、戦争状態の国に住む人々にとっては自国の旗の色は連帯の気持ちを、また敵国の旗の色は怒りを誘発するかもしれない。どのような色がどのような(感情反応を誘発する)条件刺激となるのかは、それぞれの個体の生育歴によって異なる。そういう意味では色の見え方は人それぞれであると言える。
  3. 痛みの感覚は、自身のからだのどこかで怪我や異状が生じたという情報が脳に伝えられることで生じる。
    「痛み」の感覚が中立的ではなく嫌悪的となるのは、個体の生存にとって、それをいち早く消し去るために行動することが、それを無視するよりも適応的に働くからである。また極端な痛みに対してはエンドルフィンやセロトニンが分泌されることで苦痛が和らぐ場合もある。
    一般に昆虫などの節足動物は足がもげてももがき苦しむことはない。なので仮に昆虫が言葉を持っていたとしても「痛い」という感覚について語り合うことはできない。
    最近の研究によれば、植物でも、葉っぱの一部が囓られたという情報を他の枝や根に伝えたりさらには周囲の別の植物にも伝えたりすることができると確認されているらしい。とはいえ、枝を切られた植物と「痛み」について語り合うことはできない。
    人間が「頭痛」や「腹痛」といった体の内部の現象を言語的に報告できるのは、まず、第三者から見ても当然生じるであろう「痛み」が、第三者からは直接観察不能な体内の現象の報告に拡張されたためである。例えば何かにぶつかったり転んだりした時に周囲の人たちから「痛いでしょ?」と声をかけられることで言葉として学習され、頭痛や腹痛も類似の症状であることで般化し、同じ言語報告反応として使用されるようになったためと考えられる。
    末期がん患者さんに使われる麻薬などで脳に伝わる信号がブロックされてしまえばもはや悼みは感じられなくなる。この場合、「痛み」の感覚や程度を語ることはできなくなる。

 いずれにせよ、『対蹠人』の思考実験で取り上げられていた『心』は、もともと存在するものではなく、ある種の言語反応のようなものに過ぎず、心理学の説明概念としては使うべきではないと私は思っている。とはいえ、私たちは同じ地球環境の中で生活しており、生物的にも同じような構造を持っているため、『地球人vs対蹠人』として対比されるほどの根本的な違いは起こりにくい。なので、現に心理療法においても、『心』や『意識』を便宜的な概念として使うことが有用になる可能性もあるとは思う。但しそれは、同じ言語共同体、あるいは共通した価値観を持った組織、宗派、世代などの内部だけで成り立つのであって、その枠の外で起こりうる対立を連帯に変えるためには、やはりローティの提案が必要になってくるのかもしれない。

 次回に続く。