じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 1月7日の朝はよく晴れ、南東の空に月齢24.9の月と金星を眺めることができた。写真には写っていないが、金星の左下には水星が見えていた。また、水星を眺めている時には流れ星も見えた。しぶんぎ座流星群と関係があるのかどうかは不明。



2024年1月7日(日)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「マラソンの距離」「表彰式で流される曲」

 1月5日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、
  1. マラソンはなぜ42.195km?
  2. 表彰式が「あの曲」になったのはなぜ?
  3. 習字に使う「墨」ってなに?
  4. 給食で牛乳を飲むのはなぜ?
という4つの話題が取り上げられた。本日はこのちの1.と2.について考察する。

 まず1.のマラソンについては、放送では、「メアリーのわがまま」が正解であると説明された。中房敏朗さん(大阪体育大学)&ナレーションによれば、42.195kmの道のりは以下のようにして決定された。
  1. マラソン競技の距離は当初は約40kmで大会ごとにバラバラだった。
  2. マラソンが競技として初めて行われたのは1896年のアテネオリンピック。紀元前490年、アテネ軍がマラトンの戦いでペルシア軍に勝利したことをを伝えるため1人の兵士がマラトンからアテネまでを命がけで走り抜いたとされる距離が約40kmだったことを参考にして決められた。マラソンの語源は地名のマラトンからきている。
  3. 1908年のオリンピックは、もともとはローマで開催されるはずだったが、1906年のベズビオ山の噴火によりわずか2年前にロンドンに変更された。
  4. そのロンドンオリンピックでは、ウィンザー城の庭から競技場までの26マイル、それにトラックを1周する距離を加えた42.379mとなっていた。しかし、貴賓席の真下から選手が入ってくるのは見えにくいということで、メアリー皇太子妃は、選手の入口を貴賓席の向かい側に変更させた。これにより距離は42.195kmになった。但しメアリーが指示した文章としての証拠は見つかっていない。
  5. 1908年7月24日に初の42.195kmで開催されたマラソンでは、競技場に1位で入ってきたピエトリ選手がフラフラ状態でゴールまでに5回も転倒した。ピエトリ選手はけっきょく他の人の助けを借りたので失格となったが、その諦めない姿に世界中が感動しそれまでメジャーでなかったマラソンが国際的に知られるようになった。
  6. 1921年に国際陸上競技連盟が正式に42.195kmの距離を決定。

 なお日本ではメアリーの義理の母・王妃アレクサンドラがゴールを見届けていたことから距離の変更に関わったといわれているが、中房さんはメアリーではないかと指摘された。
 ちなみにウィキペディアでは以下のように説明されている。
マラソンの距離は42.195 kmと設定されているが、これは古代マラソンに直接由来するものではない。オリンピックでマラソン競技が実施された当初は、大会ごとの競技距離は一定ではなく(同じコースを全選手が走ることが重要とされていたため)、約40 kmで行われていた。競技距離が統一されたのは、第8回パリオリンピック以後であり、42.195 km(26マイル385ヤード)とされた。この距離は第4回ロンドンオリンピック時の走行距離(市街地42 km+競技場の200 mトラック1周弱)をそのまま採用したものである。
第4回ロンドンオリンピックでは、当初、国王の住むウィンザー城からホワイトシティ・スタジアムの26マイル(41.843 km)で競うこととされていた。この際、時の王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために半端な数字の距離(385ヤード)だけ延長されたという逸話がある。もっとも、この説には証拠が見つかっていないとサウサンプトン大学のマーチン・ポリー教授は主張している。英国政府観光庁も、スタート地点の移動については、「観客が参加選手の走行を邪魔しないように」と述べており、また追加された距離も700ヤードとしている。この大会で最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランド・ピエトリはゴール地点を勘違いして直前(彼の認識におけるゴール)で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった(ドランドの悲劇)。





 次の表彰式の「あの曲」については、放送では「ヘンデルがイマイチ売れなかった「お気に入り曲」を大ヒット作にねじ込んだから」が正解であると説明された。三ヶ尻正さん(日本ヘンデル協会)&ナレーションによれば、
  1. ドイツ出身のヘンデルはイタリアで数々のオペラをヒットさせ、「あの曲」を作曲した時にはイギリスで活躍していた。
  2. ヘンデルの大ヒット作としては1747年に公開された『マカベウスのユダ』があった。イギリスではその直前まで国王派と反国王派との戦争が行われていたが、国王派が完全に勝利した。国王派の英雄カンバーランド公爵の活躍を描いた音楽劇が『マカベウスのユダ』であった。この曲は3部に分かれ、60曲以上で構成されていた。
  3. ヘンデルは1748年に国王派の戦いぶりを題材にした音楽劇『ヨシュア』を作ったが思ったよりも売れなかった。ヘンデル存命中の上演回数は、『マカベウスのユダ』の37回に対して、『ヨシュア』は7回に過ぎなかった。
  4. 表彰式の曲『見よ 勇者は帰る』はヘンデルの自信作であった。人気がイマイチの『ヨシュア』とともにこのまま埋もれるのはもったいないと考えたヘンデルは『マカベウスのユダ』の同じような場面にこの曲を差し込んだ。
  5. するとピッタリハマって何度も再演され多くの人に聴いてもらえるようになった。軍の式典、鉄道の開業式典、キリストの復活祭など、勇者や勝者を讃える場面での定番曲となった。
  6. さらにベートーベンが編曲したり賛美歌になったことで世界中に広がった。
  7. 1908年のロンドンオリンピックでも演奏され日本でも海軍の運動会の表彰式で使われた。

 なお、音楽劇の『見よ 勇者は帰る』は表彰式で流れるよりもテンポが速い。また日本語の歌詞もあるということで秋川雅史さんの実演があった。ついでにワーグナーの「婚礼の合唱」も歌われた。一般に歌詞が歌われないのは、
  • 歌詞がついていると気になって雰囲気に浸れない
  • メロディーだけのほうが内容に影響を受けずさまざまな場で使える
などの理由によると補足説明された。

 ネットで検索したところ、こちらに、『見よ、勇者は帰る』の英文と和訳が紹介されていた。和訳部分は、今回秋川雅史さんが歌った歌詞とはかなり異なっていた。最初の部分を比較すると、

See, the conqu'ring hero comes!
Sound the trumpets! Beat the drums!
Sports prepare! The laurel bring!
Songs of triumph to him sing!

見よ 英雄の凱旋を! 【見よ 勇者が帰ってくる】
トランペットを響かせ ドラムを打ち鳴らせ 【さぁみんなでラッパを吹き鳴らせ 太鼓を叩いて讃えよう】
饗宴の用意を 月桂冠を運べ 【勝利を祝って競技会の準備をしよう 勝者には月桂樹を捧げよう】
勝利の歌を彼に捧げよ【そして勝利の歌を高らかに歌おう】
ちなみに、同じ部分をDeepLで翻訳すると
ほら、征服の英雄がやって来る!
トランペットを鳴らせ 太鼓を叩け
スポーツを準備せよ!月桂樹を運び
勝利の歌を歌え!
もとの和訳で「Sports prepare!」が「饗宴の用意を」となっている理由はよく分からないが、かといって勇者を迎えるときになぜ競技会の準備をしなければならないのかもよく分からない。次の「Songs of triumph to him sing!」は、皆で歌おうというよりは「勇者に歌を捧げよ」が正しいと思う。

 私自身がこの曲に関して疑問に思っているのは、日本の伝統競技である大相撲の表彰式になぜヘンデルの曲が流されるのかということであった。Bingに尋ねたところ、以下のような回答をいただいた。
日本で大相撲の表彰式にヘンデルの「見よ、勇者は帰る」の曲が流れるのは、明治時代に始まった習慣です。当時、海軍兵学寮で行われた日本最初の運動会の表彰式で、ヘンデルの「栄誉の曲」が演奏されました。この曲は、「見よ、勇者は帰る」と同じメロディーです。1 その後、この曲は運動会やスポーツ競技の表彰式の定番となり、大相撲でも優勝力士を讃える曲として使われるようになりました。2
ヘンデルは、イギリスに帰化したドイツ出身の作曲家で、オラトリオやオペラなどで有名です。3 「見よ、勇者は帰る」は、オラトリオ「ユダス・マカベウス」の中のコーラスで、イングランド軍の勝利を祝う曲として作られました。 この曲は、欧米では賛美歌としても歌われています。

1: 大相撲の表彰式の曲はヘンデル作曲 | 独立メディア塾
2: 見よ、勇者は帰る ヘンデル 歌詞の意味 表彰式 大相撲
3: ヘンデル - Wikipedia
: ユダス・マカベウス - Wikipedia
: Thine Is the Glory - Wikipedia
(1) 大相撲の表彰式の曲はヘンデル作曲 | 独立メディア塾. https://mediajuku.com/article/1.
(2) 見よ、勇者は帰る ヘンデル 歌詞の意味 表彰式 大相撲. https://www.worldfolksong.com/classical/handel/thine-glory.html.
(3) 「見よ!勇者は帰る」 | 独立メディア塾. https://mediajuku.com/article/381.

 出典の中のこちらを参照したところ、
 大相撲の表彰式に流れる曲がクラッシク音楽、というと違和感を感じる人がいるかもしれません。ヘンデル作曲の「見よ 勇者は還りぬ」という曲。明治7年(1874年)に築地の海軍兵学寮で日本最初の運動会と言われる「競闘遊戯」が行われ、その表彰式でヘンデルの「栄誉の曲」が演奏されたそうです。その曲が「見よ 勇者は還りぬ」と同じだとすると、現在の運動会やスポーツ競技の表彰式などで日本中に流れるようになった始まりですね。長い歴史の中で日本に根付いたクラッシックといえそうです。(「ドレミを選んだ日本人」千葉優子著による)
という説明があった(但し、孫引き?)。違和感を覚えるのは私だけでは無いようだが。大相撲の表彰式で流されるのは曲の出だしの本の一部であり、尻切れトンボのような印象も受ける。歴史は古いようだが...。

 次回に続く。