じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 12月2日(土)にブラタモリで紹介された『世田谷城址』。私の生家から徒歩圏内にあり、子どもの頃にはよく遊びに行った。当時は「しろやま公園」と呼んでいた。左の画像は1958年8月、私が6歳の頃に撮影したモノクロ写真を着彩アプリで加工したもの。↓の記事参照。



2023年12月5日(火)




【連載】ブラタモリ「東京・世田谷〜なぜ人は世田谷に住みたくなる?〜」

 12月2日(土)にNHK総合で放送されたNHKブラタモリ

#256 「東京・世田谷〜なぜ人は世田谷に住みたくなる?〜」

をNHK+で視聴した。世田谷は私が生まれ育った地域であり、これまでのブラタモリ256回の放送の中で最も身近に感じられる回となった。番組記録サイトによれば、取り上げられた話題は、
  1. 田園調布より早い!桜新町のY字路から分かる大正時代の都市計画
  2. 世田谷の住みやすさは多摩川が作った?
  3. 世田谷城の立派な土塁と堀に守られた団地とは?
  4. 豪徳寺のシンボル・招き猫が元になった人気ご当地キャラがあった!
  5. 世田谷の冬の風物詩・ボロ市を400年以上守り続ける一族とは?
  6. タモリさん大興奮!世田谷線の楽しい鉄旅
という構成になっていた。私にとってはいずれも興味深い内容であったが、もともと世田谷は観光地ではなく、居住者以外がわざわざ訪れるほどの場所は限られている。居住者以外の方がどこまで興味を持たれたか、定かでは無い。

 放送ではまず、世田谷区が東京23区の中でダントツで人口が多く94万3664人(2位は練馬区の75万2608人、3位は大田区の74万8081人)となっていた。県の人口と比較すると、香川県と和歌山県とほぼ同じ数の人が暮らしていることになる。ちなみに私が小学校の頃は、世田谷区の人口は70万人台で大田区に次いで第二位、面積はトップであったと記憶している。その後羽田空港の拡張により、大田区の面積のほうが広くなった。

 最初に取り上げられたのは桜新町のサザエさん通りであった。この桜新町こそが世田谷の住宅地の始まりであり、1913年から分譲が開始されたという。開発のきっかけとなったのは『玉電』。1907年に開通したが私が高2の1969年に『世田谷線』部分を除いて廃止された【その後、『新玉川線』が開通し、さらに『田園都市線』と改称された】。当時の都市計画の名残としてY字路があり、もともとは1898年イギリスの都市計画『ガーデンシティ』を模したものであったという。

 続いて取り上げられたのが世田谷城址であった。上掲の写真にあるように、この公園は生家から徒歩圏内にあたっためよく遊びに行った。もっとも遊びに行く時に写真を撮ってもらうということは無かったので、私が写っている写真として残っているのは上掲の1枚のみであった。
 放送によれば、世田谷城はかつての多摩川によって削られた台地に作られている。地盤が安定した台地で水にも困らないということで世田谷は縄文時代から暮らしやすい場所であり遺跡もたくさん残っているという。
 放送では世田谷区内の小河川はかつての多摩川の名残であると説明されていたが、私が小中学校の頃には、これらの小河川は台地の谷間にできた湧き水を水源としていると習った記憶がある。世田谷城の近くを流れているのは『烏山川』であり、子どもの頃、自転車で区の北西部・烏山にあると推定される水源を探しに行ったことがあった。
 放送では世田谷城址の裏手にある団地とその中にある土塁が紹介された。この団地は『東京都住宅供給公社・豪徳寺住宅』であり私が子どもの頃からあった。リフォームされているとは思うが、相当の築年数になっているはずだ。

 さらに取り上げられたのは豪徳寺と招き猫の由来であった。豪徳寺は井伊家の菩提寺であり、彦根の『ひこにゃん』は豪徳寺の招き猫に由来しているという。このことは全く知らなかった。また井伊家(彦根藩)の領地が世田谷区や狛江市の半分近くを占めていたということも初めて知った。

 続いて取り上げられたはボロ市であるが、私は一度も行ったことが無かった。ボロ市の起源は楽市であり、世田谷は関東で一番早く楽市が認められた地域であったという。このボロ市を守り続けたキーパーソンとして、世田谷代官の大場さんが紹介された。現在の当主は16代目になるという。大場さんというお名前で思い出されるのは、私が学生・院生の頃の世田谷区長大場啓二さんであり、住民票や戸籍抄本などを取り寄せる時にお名前が記してあった。もっともウィキペディアなどで検索した限りでは、その区長さんと、世田谷代官の大場家とは直接関係が無さそうである。

 番組の終わりのあたりでは世田谷線が取り上げられた。世田谷線はかつては玉電の一部として渋谷から三軒茶屋(路面区間)、さらに住宅地の中を走り、小田急線と交差して下高井戸に至る。放送では、世田谷線が上町のあたりでほぼ直角に曲がっている理由が説明された。世田谷線の開通にあたっては大場家14代の大場信続(←「続」は旧字体)が活躍し、私財で路線の敷地を確保したという。三軒茶屋から下高井戸までつなぐ際に、上町あたりの中心地行きを経由した結果としてL字形の路線になったというような話であった。放送では、タモリさんが臨時車両に乗って上町から三軒茶屋まで乗車した。途中、車道の信号を優先する環七の若林踏切も紹介されていた。ちなみに、環七が開通した当初は、ここには普通の踏切があり世田谷線の通行が優先であった。しかし遮断機が下りるために環七が大渋滞となり、現在の信号方式に変更された。そのため、世田谷線の線路を横切る時には車は一時停止の義務を負わなくなった。

 ということで懐かしい風景満載の放送であった。私が世田谷で暮らしたのは生まれてから高校卒業までの18年であり、現在71歳となった人生全体では1/4程度に過ぎない。とはいえ幼少時の体験は強烈にインプリンティングされており、いまでも夢の中で生家周辺の路地や庭の風景が頻繁に出現している。もっとも、老後を世田谷で暮らしたいのかと言われると、全くその気持ちにはなれない。いま暮らしている岡山では、徒歩圏内に半田山植物園や岡大構内、運動公園、旭川土手などがあってウォーキングに適しているが、世田谷では羽根木公園、豪徳寺、松陰神社などがあるとはいえ、ウォーキングコースとしてはイマイチとなっている。さらにスーパーや病院などの施設も離れていて通いにくい。世田谷に住みたくなるというのはあくまで職場や教育環境を前提にしたものであり、私のような隠居老人の終焉の地には必ずしも当てはまらないように思う。