じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



07月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



クリックで全体表示。

 建物内で見かけたクマゼミ。死骸かと思ってつついたら突然飛び上がり空高く飛んでいった。
 ちなみに、半田山植物園では、
  • ニイニイゼミ:6月25日頃から鳴き始め、現在は合唱状態。
  • ツクツクホウシ:7月3日頃、1匹だけ鳴き声を確認したがその後は行方不明。
  • アブラゼミ:7月6日に1匹だけ鳴き声を確認。
  • クマゼミ:7月7日時点ではまだ鳴き声聞かず。
となっている。クマゼミが鳴き始めると実質的な梅雨明けになりそう。

※追記]7月7日の午前中、半田山植物園でクマゼミ1匹の鳴き声を確認した。

2023年7月7日(金)




【連載】映像の世紀バタフライエフェクト『ビートルズの革命』(6)ビートルズ解散、ソ連崩壊、その後

 昨日に続いて、NHK総合『映像の世紀バタフライエフェクト』で放送された、

●【2023年6月19日初回放送】ビートルズの革命 青の時代 そしてルーシーは宇宙を行く のメモと感想。

 前回記したように、当時のソ連において西側のロックが禁じられており厳しい取締や、ソ連国営テレビでは反ビートルズ・プロパガンダが行われていた。しかし例外的にエストニアでは監視がゆるく、60年代からロックコンサートが行われており、ビートルズの曲を流した放送局もあった。そうした環境のもとでイヴォ・リンナ(ウィキペディアでは『イヴォ・リンア』が登場した。リンナは1968年秋にエストニアのテレビ番組に出演し、ビートルズ最大のヒット曲『ヘイジュード』のカバー曲をロシア語ではなくエストニア語で歌った。リンク先にも記されているように、 1987年から1991年にかけて発生した、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立を目指す「歌う革命」(エストニア語: laulev revolutsioon)の時期に、リンナ(リンア)は重要な音楽家の一人となり、愛国的な曲を歌い、有名になった。

 いっぽうビートルズのほうは亀裂が生じ初め、1968年8月にはリンゴ・スターが脱退を表明した。その後メンバーはリンゴ・スターを説得しプロモーションビデオの撮影で一緒に演奏した。設立したばかりのアップル・ブティックは経営難で閉店に追い込まれ、アップル社も赤字に転落。ジョン・レノンはオノ・ヨーコとのソロ活動に転じた。そんななかでも『Abbey Road』(1969年9月26日)、『Let It Be』(1970年5月8日)といったアルバムが発売されたが、1970年4月、ついにビートルズは解散。活動期間は8年であった。

 その10年後の1980年12月8日、ジョン・レノンが凶弾に倒れ、旧ソ連を含む世界中で追悼集会が開かれた。1985年3月、ゴルバチョフが共産党書記長に就任するとロックバンドへの規制が解かれた。『Can't Buy Me Love』がロシア語の歌詞で歌われ、更なるソ連の改革を訴えた。また上にも記したようにエストニアではイヴォ・リンナが国民的歌手となり『私はエストニア人』というオリジナル曲を歌った。『歌う革命』がもたらした独立運動は隣国のラトビア、リトアニアにも波及した。「イヴォ・リンナは、60年代のエストニアの若者たちを音楽に目覚めさせたのはビートルズだ、私もビートルズに出会ったからこそ音楽の世界に飛び込み、そして歌う革命に参加した」と回想している。

 2001年11月29日、ジョージ・ハリスンが肺がんで死亡し、ビートルズの残るメンバーは2人だけになった。2003年5月24日、モスクワ・赤の広場でポールは初めてのモスクワ公演を行い2万人が集まった。ゴルバチョフもまたビートルズのファンであり、「もっと早く会いたかった」と述べる対面シーンが紹介された。

 ジョン・レノンは亡くなる5年前の1975年4月4日、フランスのテレビ局の取材に対してこう語っている。
僕が気に入らなかったのは、僕たちが何かをリードしているという主張だった。60年代は“新しい世界を発見しに行く船”だった。そしてビートルズは、その船の見張り台に立っていただけだ。僕たちは「Land Ho!」と叫んだ。それだけだ。僕たちが何に貢献して何に貢献しなかったか、僕にはわからない。人それぞれビートルズから受けた影響の度合いは違うだろうしね。言えるのは、僕たちの世代が全員で60年代という船に乗り新しい世界へ行ったということだ。


 放送の終わりのところでは、もともとはビートルズの曲名に由来する小惑星探査機『ルーシー』が2021年10月に打ち上げられたシーン、その『ルーシー』にビートルズ4人の言葉が刻まれていることが紹介された。ルーシーが地球に戻ってくるのは数百年、あるいは数千年先のことになるが、その時世界はまだビートルズを聞いているだろうか、というナレーションによって締めくくられた。




 ここからは私の感想になるが、ビートルズが公式に解散したのは1970年4月ということだったので、私が高校3年生の時になる。当時の日本では、1969年1月の安田講堂攻防など全共闘運動が活発であったが、党派間の衝突により一般学生から浮き上がり、私が大学に入る頃には弱体化していった。1969年頃には新宿駅西口地下で歌声集会が盛んに行われていたが、道路交通法の新解釈により徹底的な取締が行われ消え去っていった。
 上記のように、旧ソ連では、バルト三国ばかりでなくロシア国内でもビートルズが影響を与えていたことは確かだが、日本ではビートルズのファン自体は多数おられたものの、何らかのムーヴメントに結びつくことは無かったように思われる。

 1967年〜1969年頃、日本ではグループ・サウンズ(GS)も大人気となっていた。ただしそれらはビートルズばかりでなく、ベンチャーズやローリング・ストーンズなどの影響を受けていたともされている。いずれにせよ、GSのブームは1970年代を挟んで5年ほどしか持続しなかったと言われている。こちらの記事によれば、GSがなぜビートルズのようになれなかった理由としては、
  • 洋楽的音楽センスが未成熟であり「まがい物」のそしりは免れないものであった。
  • 1960年代後半は、全世界で「若者の反乱」=「大人への反抗」が噴出し、ロックミュージックも、その文脈で若者の支持を獲得していたが、てGSは、同世代の学生運動に傾倒していた若者たちからは、ミーハーで堕落した商業主義音楽との烙印を押され、基本的には体制側の音楽とみなされていた。いっぽう、当時のGSは、PTAや学校から「不良の音楽」と目の敵にされ弾圧されていたので、結果として、GSは、絶大な人気がありながら、保守派からも左翼からも嫌われるという「板挟み」状態にあった。
などが指摘されていた。

 ビートルズ解散後のことでもあり放送では取り上げられなかったが、ポール・マッカートニーは何度か日本公演を行っている。といっても1975年11月の公演は大麻不法所持の前科によりビザ発給停止。1980年の公演のための来日では同年1月16日に日本入りしたマッカートニーが税関の荷物検査でおよそ219グラムの大麻を所持していたことが発覚したため現行犯逮捕。9日間もの間拘留され、国外退去されたことによりこちらも全公演中止となった。その後、公演は何度か行われているが、本人の病気などにより直前の中止も少なくないようだ。
 なお、もう一人の存命者、リンゴ・スターの情報はこちらにある。ポールと同じく今なお現役で活躍しておられるようだ。リンゴ・スターというのは珍しい名前であると思っていたが、リンク先によれば、
芸名の“リンゴ・スター”とは、ロリー・ストーム&ハリケーンズ時代にそれぞれが芸名を考えた時につけられたもの。指輪が好きで両手にいくつも付けていたので“Rings(リングズ)”と呼ばれていて自分がリンゴ・キッドに憧れているので「リンゴ」と命名。リンゴは、Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けたと発言している。
とのことであり「林檎」や「星」とは全く関係がないようだ。

 ということでこの連載は終わり。人生70年、音楽には殆ど縁の無い私であるが、私とほぼ同時代【正確には10年ほど前】に存在したモンスターについて、2回の放送を通じて基本的な知識を得ることができた。