じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 ウォーキングの途中、スズメガの仲間を見つけた。Googleレンズで検索したところ『モモスズメ』の可能性が高いことが分かった。似たような蛾にはクチバスズメがある【2020年7月30日の日記参照】。


2023年6月16日(金)



【連載】ブラタモリ「大阪」(2)両側町と堀

 昨日に続いてNHK「ブラタモリの話題。今回からは、 のメモと感想。

 2016年の放送では、上町台地の話題に続いて、秀吉の時代に造られた『謎の町割り』が紹介された。大阪城の西側のエリアをキタから南に歩くと、『船越町』、『内平野町』、『内淡路町』、『大手通』というようにいろいろな町名が目に入る。興味深いのは町と町の境目が道路ではなく、同じブロックの真ん中で区切られていることである。この区割りは『背割り』による『両側町』と呼ばれる。同じ通りに向かい合った家は同じ町内になり交流しやすくなる。
 秀吉はまた、町と町の境目に排水溝を通した。いまでは細い路地になっていて地下に埋もれているが、『背割(太閤)下水見学施設』(都市技術センター)として見学できる場所も残っているという。

 この下水は上町台地の地形を活かして造られており、もともと谷があった場所ではそれに合わせて曲がって造られていた。近所の方の話では谷の最上流部(谷頭、こくとう)にはかつては水が湧いていて金魚の池があったという。

 大坂の街並みは、まずは大阪城を含む上町台地で発展し、時代が進むとその西側の湿地帯を埋め立てて造られた『船場』に広がった。船場の町割りも『背割り』であり、東西に直線状に伸びた細長い町が作られていた。ところがその道を西方向に進んでいくと、西横堀から西側では道路の向きが変わっていることに気づく。そこは江戸時代、大阪の町人たちの手で開発されたエリアであった。堀の向きは川の流れに沿っていたため、秀吉によって東西方向に強引に造られた区割りとことなり斜めに曲がっていたという。堀がたくさん造られたことで、船を通じて日本各地の特産物が入るようになり物流の拠点となった。このエリアの北側の中之島周辺には130あまりの藩の蔵屋敷が並び、商都として発展した。

 2016年初回放送の内容は以上であった。大阪の町中を本格的に歩いたのは、

絶景は無いが、なぜか懐かしい大正愛らんど

の1回だけで、あとは何かの用事のついでに短距離を移動する程度であった。今回取り上げられた『背割り』や堀の跡などは、注意して見ない限りは気づくことはない。次回何かの機会があれば立ち寄ってみたいところであるが、Googleのストリートビューでもある程度実感することはできる。

 ネットで検索したところこちらに、『両側町』の歴史について分かりやすい解説があった。繁華街では四面両側町にするとそのぶんいろいろな店ができて無駄が無いが、奥行きがとれない(もしくは長大なウナギの寝床ができる)ことと区割りの中央部に空き地(裏庭)ができてしまうという問題がある。また二面のみの両側町ばかりにこだわるとたくさんの道路が必要になり土地の有効活用ができなくなる恐れがある。

 『両側町』と異なる町名表示をしている都市としては札幌や旭川がある。こちらのサイトで解説されているように、北海道の条丁目は道路で仕切られたブロック別の町名である【こちらに関連記事あり】。交差点付近で待ち合わせる時などは、角によって町名表示がことなっており、どうしているのかと気になるところだ。私も『条』や『丁目』は通りの名称だと思っていて、ホテルの場所などを一筋間違えたことが何度かあった。

 次回に続く。