じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 ウォーキングコース沿いで見かけたシャリンバイの花。今が見頃となっている。


2023年5月13日(土)



【連載】チコちゃんに叱られる!「教室の掃除」「人間だけが絵を描ける理由と言語行動」

 5月12日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この日は、拡大版スペシャルとして放送時間が72分に拡大され、また放送中のハプニングなどに岡村さんが気づくかどうかをあてる「どうする岡村!?」が挿入された。取り上げられた疑問は、以下の4つであった
  1. 学校で教室の掃除をするのはなぜ?
  2. 人間だけが絵を描けるのはなぜ?
  3. なんで桜が咲く日がわかるの?
  4. 赤ちゃんをだっこして歩くと泣きやむのはなぜ?
本日はこのうちの1.と2.について考察する。

 まず1.の学校で児童・生徒が掃除をする理由であるが、このWeb日記で何度も指摘しているように、ある行動が行われている理由としては、
  • その行動の由来
  • その行動が現在も続けられている理由
というように少なくとも2つの側面がある。今回の放送ではそのうちの由来について説明された。
 放送によれば、そもそも学校で教室の掃除をしているのは、日本、韓国、中国、エジプト、シンガポールの5カ国程度であり、世界全体ではきわめて稀であるという。
 放送によれば、正解は「チューラパンタカみたいになってほしいから」であると説明された。学校で掃除をするようになったのは室町時代であり、当時の学校と言えばお寺であった。は教材として使われていた『根本説一切有部毘奈耶(こんぽんせついっさいうぶびなや)』には釈迦の弟子であるチューラパンタカの逸話がある。チューラパンタカは最後には阿羅漢という仏教修行者の最高位に登り詰めたが、もともとは物覚えの悪いダメダメな人であった。チューラパンタカは釈迦の教えに従って「塵を払え垢を除かん」と唱えながら3年間にわたってお寺を掃除した。しかし、毎日毎日掃除しても全然塵や垢がなくならないことに気づき、これは心の塵や垢と同じであること、どんなにキレイにしても心に塵や垢はでてくる、だからこれからも毎日心を磨き続けなければならないのだと悟った。こうしてチューラパンタカは他の人のお手本になっていった。こうした逸話もあってお寺では掃除が修行の1つとなったが、その習慣は江戸時代の寺子屋、さらに明治以降の学校にも引き継がれていったという。なお、「その行動が現在も続けられている理由」については、「子どもたちが協力して生活していく」という教育目的によるものであると補足的に説明された。

 教室の掃除については私自身も記憶があるが、雑巾のニオイと、義務的にこなしたという印象しか残っていない。ハタキで舞い上がるホコリは相当なものであり、アレルギー体質の人には辛かったのではないかと思われた。あるいは、こうしたホコリを通じて定期的にウイルスや細菌に晒されたことでブースター効果によって免疫機能が維持されていた可能性もある。
 私が子どもの頃は、教室の掃除と言えば、ホウキ、ちりとり、ハタキ、雑巾が使われており、汚れた雑巾は手もみで洗って教室の隅で干していた。なので教室のニオイと言えば雑巾のニオイであった。今でも掃除機ではなくホウキ、また洗濯機を使わずに雑巾を洗っているのだろうか。




 次の2.の「人間だけが絵を描けるのはなぜ?」については放送では「人間だけがことばを使うから」が正解であると説明された。芸術と人間の身体発達の関係を研究している斎藤亜矢さん(京都芸術大学文明哲学研究所)によれば、チンパンジーやオランウータンでも絵筆を使って絵を描くことができるが殴り書きのレベルである。自分が表したい形を具象的に描けるのは人間だけであり言葉が深く関わっていることが分かってきた。例えばチコちゃんの絵は言葉でチコちゃんの特徴を挙げて、その範囲で絵を描くことができる。言葉に挙がってこなかった特徴を絵に表すことはできない。目の前にないバナナの絵を描く時も同様であり、まずバナナの特徴を言葉で思い出してイメージを作る。なお放送の字幕では一貫して平仮名の「ことば」で表記されていたが、ここでは特に必要性が感じられなかったので、以下、漢字表記の「言葉」を使用することにしたい。
 この能力が備わっているのは人間だけであり、チンパンジーの顔の輪郭だけを描いた絵を提示した時、チンパンジーや1歳5カ月の子どもはその絵を上を殴り書きするだけであるが、言葉を覚え始める2歳半から3歳くらいになると目や鼻や口を描き足すことができるようになる。言葉が増えることでイメージがハッキリして絵が描けるようになる。まだ言葉のおぼつかない1〜2歳児では、自分が絵筆等を動かすことで色がついたり印がついたりすることを楽しむだけであるが、3〜4歳頃になると、言葉で人間の特徴を挙げることができるようになり、このことから頭足人(顔から手足が生えた絵)を描いたりするようになる。さらに5歳になると、特徴を挙げながらチコちゃんの絵を描けるようになる。このように年齢による絵の違いから、言葉の発達と絵が深く結びついていることが分かる。
 放送ではこのあと「言葉に詳しい人は絵がうまい」という勝手な仮説を立てて、金田一秀穂さん(言語学者)、米川明彦さん(日本語学者)、新谷尚紀さん(民俗学者)にムーミンの絵を描いてもらったが、いずれもホンモノのムーミンとは著しくことなっていた。このことについて斎藤亜矢さんは、リアルな絵を描こうとするにはちゃんと見る必要があり、言葉の専門家であるということと絵【の上手下手】はあまり関係ないと説明された。

 ここからは私の感想・考察になるが、斎藤亜矢さんのご研究については、少し前に、ヒューマニエンス『アート』(1)芸術と言葉でも言及させていただいたことがあった。余談だが京都には、芸術関係の大学が複数あり名称問題が起こったことがあった。和解の結果、 「京都芸大」「京芸」の略称は、京都芸術大学ではなく京都市立芸術大学が使うことになったとのことで区別が必要かと思われる。

 言葉の発達と絵画については、今回の放送でも示されたように相関関係があることは確かであろうとは思う。但し、相関があるからといって、言葉の発達が原因でそれに伴って絵を描く力も発達するかどうかについては精査が必要であろう。もちろん、目の前にはバナナが置かれていない状況で「バナナの絵を描いてください」と言語的に教示する場合は、言葉の発達は不可欠であろう。しかし、例えばサヴァン症候群の例にもあるように、言葉でいちいち特徴づけしなくても写真で写したような絵が描ける人もいる。また、チンパンジーの顔の輪郭を描いた絵に目・鼻・口を描き足すような場合には、ゲシュタルト的な知覚の発達もかかわっているかもしれない。

 いずれにせよ、何かの実物を画用紙に描くという課題では、まずは手先の器用さの発達(直線や円を描けること)が必要である。チンパンジーや1歳児がうまく絵を描けないのはそうした運動能力の未発達が原因になっている可能性がある。
 そして次に考えられるのは、実物と絵の対応関係を把握する力。これについては関係フレーム理論で詳しく論じられている。【抽象画は別として】写実画では、実物と絵は「非恣意的な」対応関係にあると思われる。チンパンジーでも、実物を見てそれに対応した写真を選ぶことはできる【←さらに実物に対して恣意的に設定された記号を対応させることもできる】。実物に似た写真とあまり似ていない写真を見せた時に、実物によく似た写真のほうを選ぶことができるかどうかについては未確認。このほか、鏡に映った自分の顔に対する反応を調べた研究も多々あり、これらを総合して「絵を描く」という行動に必要な諸要因を整理する必要があるだろう。

 次回に続く。