じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



01月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



クリックで全体表示。
12月3日の楽天版に、11月下旬に歩いた大河内林道(北九州八幡東区の猪倉から河内貯水池に到る林道)のアルバムを掲載した。
年末年始の帰省時に、ウォーキングを兼ねてこの道を途中まで歩いてみた。
  • 写真上段:猪倉の集落からの分かりにくい分岐点。案内板も何も無いが、右側の細い道を赤いテープを目印に進む。
  • 写真中段:林道側から撮影した大河内林道への合流点。前回と異なり、猪倉方面への分岐点に石が積まれていた。なお猪倉の分岐点からここまでは、私の足で15分程度であった。
  • 写真下段:猪倉から河内貯水池に行くには大河内林道を右に進まなければならないが、今回は5分ほど左方向に歩いてみた。写真は、ゆるやかな坂道を上り詰めた「峠」のあたり。道はさらに続いており、終点がどこなのかは謎のままに終わった。

2023年1月8日(日)



【連載】チコちゃんに叱られる!「駅伝の由来」

 1月6日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、年始めの特別枠であり、
  1. 駅伝ってそもそもなに?
  2. 初詣に行くようになったのはなぜ?
  3. 鼻水ってなに?
  4. 紅白幕がおめでたいのはなぜ?
  5. 【おたよりご紹介】みんなより背が小さかったらどうするか
という5つの話題が取り上げられた。このほか放送の最中に岡村さんに思わぬ出来事が起こった時に岡村さんはどうする?という3択クイズ「どうする岡村」が出題された。本日は上記の1.について考察する。

 さて、駅伝の由来であるが、放送では「新聞記者が経営危機を救うために開いたハチャメチャなイベント」が正解であると説明された。
 駅伝は日本発祥のスポーツであり、初めて行われたのは1917年。1868年に東京が新たな都となってから50年になったのを祝う「東京奠都五十年奉祝博覧会」が上野・不忍池畔で行われ、これを盛り上げるイベントとして讀賣新聞社主催で行われた。1912年日本が初めてストックホルムオリンピックに参加したことでスポーツへの関心が高まり、朝日新聞社は現在の夏の甲子園である全国中等学校優勝野球大会を開催。また毎日新聞社は全国規模の水泳大会と大規模なスポーツイベントに力を入れ始めていた。当時、朝日新聞社も毎日新聞社も発行部数約30万部であったのに対して、読売新聞社の発行部数は3万部程度で経営危機に陥っていた。
 そんななか、江戸時代の飛脚を参考に東海道五十三次をマラソンで走ることを思いついた讀賣新聞社の記者、土岐と大村は実現に動き出す。その提案は上司によっていったんは却下されたが、当時の外務大臣で父が読売新聞創業者の一人だった本野一郎からの後押しで実行されることになった。この時点ではまだ駅伝という言葉は存在せず、大日本体育協会の副会長の武田千代三郎の提案で、「宿駅伝馬制」から「駅伝」と名付けられ、1917年3月1日の読売新聞の紙面で初めて「駅伝」という言葉が使われた。
 江戸時代の飛脚のコースに合わせて、この最初の駅伝は、京都三条大橋〜四日市〜浜松〜箱根〜川崎〜東京の区間を全23区516kmに設定され、41時間44分で関東組がゴールしたという。このイベントはとんでもない予算オーバーで大赤字となり提案者の一人である土岐善麿は責任を追及され読売新聞社を退社したが翌年に朝日新聞社に入社した。

 放送内容は以上であったが、ウィキペディアによれば、上記の「東海道駅伝徒歩競走」は 1917年4月27日に、関西組と関東組に分かれ京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508km【←放送では516kmとなっていた】を昼夜問わず走り抜けるもので、先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分であった。この時の関東組のアンカーは金栗四三であったという。

 ちなみに各種駅伝競走の中でも一番有名な、東京箱根間往復大学駅伝競走は、陸上競技の分類上は「大学駅伝>地方大会」となっている。リンク先によれば、
箱根駅伝を着想したきっかけは1919年10月、金栗四三が埼玉県の鴻巣で行われた小学校の運動会に審判として招かれたことであった。帰路の車中、金栗は(同じく審判として招かれていた)2人の陸上選手、東京高師の後輩である野口源三郎お よび明治大学の学生だった沢田英一と語り合った。沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、3 人は世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であっ た。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労 しながら1920年2月14日に第1回箱根駅伝を実施した。
と記されていた。もっとも「アメリカ大陸横断駅伝」の話は資金難により頓挫したという。
 ウィキペディアには別の説として、以下の記事もあった。
箱根駅伝は、宿駅間を継走し文書や情報を伝達していた宿駅伝馬制の飛脚(現在の郵便配達制度)をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根関所)に届けて、東京に戻るまでの速さを競う大学対抗戦のイベントとして開催されたという説がある。 その目的は、寒さや雪で観光客が少なくなる冬に観光客を呼び込むためで、宿泊客を増やすために2日間に渡って開催されたと言われている。第1回から第12 回までの往路ゴール地点は箱根関所跡であり、第22回(箱根神社)を除く第13回から第44回までは箱根町郵便局がゴール地点だった。 当初はルールが曖昧で、人力車夫や陸上以外の他競技の選手が走ったこともあったが、回数を重ねるごとに陸上競技性が強くなり、1958年NHKによるラジ オ放送、1987年日本テレビが中継を開始するなど放送技術の進化もあり、細かいタイムを競い合う大会になった。競技性が強くなる過程で、駅伝という言葉 の意味が「宿駅伝馬制」から「陸上競技」に変化した。
 以上のウィキペディア記事を閲覧したところでは、駅伝の名称自体は「東海道駅伝徒歩競走」に由来しており、その実現に讀賣新聞社の記者が貢献したことは間違いないが、「箱根駅伝」は必ずしもその発展形ではなく、「アメリカ大陸横断駅伝」を目指した金栗らや、集客効果を狙った箱根地区の観光業者の尽力により定着していったものと推測される。箱根駅伝以外の大学駅伝、実業団男子駅伝、都道府県対抗駅伝なども、(名称ではなく)競技としてのルーツは箱根駅伝のほうにあるのではないだろうか。

 私自身が毎年見ている駅伝は、京都で行われる高校駅伝(男女)、都道府県対抗女子駅伝、箱根駅伝の4つであり、他にもクイーンズ駅伝、元日の実業団男子駅伝も一部を観戦することがある。京都で行われる駅伝は、私が学生時代に下宿していた紫明通り・烏丸鞍馬口近辺や、百万遍交差点付近の懐かしい景色が写るため、毎年見ている。

 箱根駅伝についてはこのWeb日記でも何度か取り上げたことがあった。私が子どもの頃はNHKのラジオ放送のみで中継されており、早稲田出身の父親がラジオで聴いていた。『大学かぞえうた』に歌われている大学【おおやけに歌われている歌詞では大学名は伏せられているが、私が父親から教わった歌詞では、少なくとも、拓大、日大、早大、明大、慶大、中大、農大が含まれていた。】が多く出場していたが、新興大学にシード権を奪われつつあるようだ。

 次回に続く。