じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 12月27日の昼、おかやまプレミアム付食事券を使って回転寿司を食べに行った。お目当ては、普段なかなか食べられない「濃厚うに包み」であり、たらふく食べた。もっともこのウニ、以前は110円皿で提供されていたが今回のネタ祭りでは190円皿での提供となっており実質大幅値上げとなった。今回の食事でプレミアム付食事券はすべて使い果たした。次のキャンペーンがあればまた利用したいと思う。


2022年12月28日(水)



【連載】チコちゃんに叱られる!「動物を数える時の匹と頭の違い」「風はどこから吹いてくる」

 昨日に続いて、12月23日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. 鳥肌ってなに?
  2. じゃんけんの前に両手の指を組んで中をのぞくのはなぜ?
  3. 全国のうかつな事態を大調査!
  4. 動物の数え方で「匹」と「頭」はなにが違う?
  5. 風はどこから吹いてくる?
という5つの話題のうち、残りの4.と5.について考察する。

 まず4.の「動物の数え方」であるが、私自身も区別の基準については疑問を持っていた。例えば、豚や山羊は普通は「頭」で数えるようにも思うが、童話のタイトルでは『三匹の子豚』とか『狼と七匹の子山羊』というように「匹」が使われていた。また、蝶々を数える時には「頭」が正式であると聞いたこともあった。

 言語学を専門にしている飯田朝子先生(中央大学)によれば、正解は「戦って勝てるかどうか、または特別な価値があるかどうか」であると説明された。江戸時代まではすべての生き物の数え方には「匹」が使われており、「頭」はなかった。1813年に作成された江戸時代後期の浮世絵『阿蘭陀船持渡 象乙匹(おらんだせんもちわたるぞういっぴき)』)で「象乙匹」(←なぜ「乙」が「1」という意味になるのかは未確認。但し「乙」には「いち」という読み方があるようだ)と記されていることから分かるように、当時は象も「匹」で呼ばれていた。そして明治時代になり西洋の文化が入ってきた時、生物学の論文に「head」という数え方で書かれていた。これが直訳され「頭」が使われるようになった。1882年に開園した上野動物園の動物飼育記録には、「水牛雌壱頭"というように「頭」が使われており、また1916年に書かれた夏目漱石の新聞小説でも、馬を「頭」で数えている記述があったことから庶民の間でも「頭」という数え方が広まっていたことが分かる。
 飯田先生によれば、目の前で向き合ったときに勝てるなら「匹」、勝てないなら「頭」と使い分けられる。人間は子どもと大人で大きさに違いがあり、人間より大きいか小さいかで判断しようとすると人や動物によってバラバラになってしまう。人間が勝てるかどうかなら判断がつきやすいので分け方の基準になったのではないかと考えられる。もっとも厳密なルールがあるわけではないので自分が感じた通りに使い分けるといい。
 もう1つの基準は「特別な価値があるかどうか」であり、蝶はコレクターにとって特別な存在なので「頭」が使われている。特別な訓練を受け単なるペットではない警察犬や麻薬探知犬も「頭」と数える。ホタルも一般的には「匹」だが光るホタルは「灯」と数える。
 続いて飯田先生から、「山」の数え方は神様が座っていると考えられていることから「座」、「イガ栗」の数え方は毛羽立った毬に似ていることから「毬」、栗の実は「個」や「粒」。「神様」の数え方は「柱」といった興味深い数え方が紹介された。日本語には他にも「羽」、「尾」、「丁」、「台」など数え方がおよそ500種類あるという。しかし厳密なルールは無いので、自分なりの数え方を発見すればよいと結論された。

 私自身は現役時代、何度か入試委員長を仰せつかったことがあったが、入試関係での興味深い数え方としては「人」がある。かつては、募集人員などの数え方は「○○名」とか「若干名」が使われていたが、ある時から「○○人」、「若干人」というように変更された。これは日本語として「名」より「人」が正しいかどうかといった議論ではなく、文科省からのお達しのあった基準に基づくものであった。ちなみに入試関連文書では「合格発表」が「合格者発表」、「入試」が「選抜」(但し「入試」と呼ぶ場合もある)、さらに「者」と「もの」の使い分けというように、一字一句、けっこう細かいところまで厳密な基準で使い分けられている。




 最後の「風はどこから吹いてくる?」については、「風は冷たいほうから吹いてくる」が正解であると説明された。気象庁に長年勤められていた気象予報士の繞村曜(にょうむら・よう)先生によれば、風はひと言で言えば「空気の移動」であり、空気は常に動き続けている。空気には重さがあり、温められれば軽くなり、冷やされれば重くなる。このとき、空気が移動し、風が生まれる。放送では、続いて、陸風、海風が生じる仕組みが実験で再現された。もっとも、夏は、太陽の影響で赤道付近の空気が常に暖められて上空に溜まりすぎ、これが日本付近で下降するため、「暖かいほうから風が吹く」と説明された。

 ここからは私の感想・考察になるが、海風・陸風の話は小学校の理科の教科書にも載っていたと記憶しているが、私がよく分からないのは、対流現象と、気圧と、渦の力の関係である。例えば、円筒形のパイプがありその中に取り付けられた換気扇を回せば、パイプの中の空気は常に移動するようになる。この場合は、上記のような温度差は発生しないし、パイプのどの場所でも気圧は同じになるはずだ。にも関わらずパイプの中には風が吹いているはず。もちろん自然界には換気扇は存在しないが、台風による強風は、地球の自転に端を発した渦が熱エネルギーを供給されることで発達していくのではなかったかと思う。竜巻にもまた、独自の発生・発達のメカニズムがあるはずだ。

 「風はどこから吹いてくる」は、ある意味では「真の風上はどこか?」という疑問に関係しているように思われる。しかし地球上のどこにも、風の根本原因、いわば風神の居場所のようなところはない。雲も同様で、流れる雲を見ていると「雲はどこからやってくるか」という疑問が生じるが、雨雲レーダーを見ると、西のほうから移動してくる雲もあれば、ある地点から発生・発達している雲もある。要するに、風にも雲にも根本原因はない(←もちろん太陽エネルギーが無ければすべては生じないが)。これらを注意深く観察すれば、「物にはすべて原因がある、だから第一原因がある、よって神は存在する」などと叫ぶカルト宗教勧誘員の主張が如何に凝り固まったものであるのかが理解できるだろう。