じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 北九州で偶然、連節バスに乗る機会があった。これまで何度か見かけたことがあったが、乗車したのは今回が初めて。写真下は連結部分。後ろ向きの座席があるほか、ICカード利用の場合は、後ろの車両からも下車できるようになっていた。

2022年5月05日(木)



【小さな話題】立花隆さんの言葉その2

 昨日に続いて、4月30日に放送された、

●NHKスペシャル「「見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅〜」

のメモと感想。放送後半で立花さんが語った内容は、以下のようなものであった(句読点・改行等は長谷川による改変あり)。
  1. 人間は不死ではなく、死すべき運命にあるということです。しかし、人は自分が死すべき運命にあるということを自覚したとたん、その運命を乗り越えることができるのではないかとも思いました。自分は弱い人間だけれども、周囲に支えられてこうしてここまで生きてくることができた。その周囲の人に対して最後に「ありがとう」の一言を言いたいという言葉です。人間の限りある命は単独であるわけではなく、いくつもの限りある命に支えられて、限りある時間を過ごしていきます。それは周囲に支えられて存在するという意味において、「いのち連環体」という大きな輪っかの一部でもあります。そしてそういう連環体がつながって、「いのち連続体」をなしている、そういうふうに見ることができます。
  2. 竹は全部地下茎でつながっています。竹がある山はひと山全部ひとつの植物なんです。人間の知的な営みも、実は地下でつながっているんです。みんなの頭の中にあることはどこかであなたの頭に何らかの形で取り込んだわけです。人間の知識の体系みたいなものも、そういう風につながっているんです。
  3. 現代社会において最大の問題は、あらゆる知識がどんどん細分化し断片化し、ありとあらゆる専門家が実は断片のことしか知らない。専門家が総合的に物を知らない。それが現代における最も危機的な部分であるから、断片化した知を総合する方向にいかなければならない。自分を教養人に育てられるかどうかは、自分自身の意思と能力と努力次第なんです。
  4. 千年単位の時間が見えてくるということが、遺跡と出会うということなのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。
    見えた 何が 永遠が
    かつてそう書いて詩人を廃業した詩人がいた。永遠を見る幻視者たりたいと思うが、それをほんとうに見るのはこわいような気もする。

 放送後半では、死後に集めた膨大な書籍を一冊残らず処分してほしいと言い残した理由について、関係者の指摘や立花さんご自身の音声記録などをもとに謎解きが行われた。
  1. 立花さんは、誰かがたどり着いた知を集積するのではなく人間一人一人が学び高めていくことに意味を見出していたのではないか。
  2. 立花さんは死に関して自分は連続体の1つであると考えていたのではないか。(古くから交流があり亡くなる直前にも面会した安福謙二弁護士)。
  3. 立花さんは、トルコやギリシャの遺跡に身を置くことで人間の営みとそれを超える何かを感じ取ろうとしていた。(『エーゲ 永遠回帰の海』の取材に同行した写真家の須田慎太郎さん)。
  4. 【入院した立花さんの要望は】何度も「もういい、検査も必要無い」ということでちょっと私自身も意外だった。私のうかがい知れないところであるが、いろんなことを体験したいという思いは非常に強かったように思う。そういう意味ではご自身の死というものも客観視されていた(主治医の永井良三・自治医科大学学長)。
  5. 亡くなる少し前、立花さんは家族に「やりたいことはやりきれた」と告げた。私は、立花さんがいのち連続体の一部として永遠の中に戻ったのだと思った(NHKディレクター)。
  6. NHKのディレクターに託された(?)原稿を読み返してみると、そこには、20世紀を代表する進化生物学者であるテイヤール・ド・シャルダンの唱えた「すべてを進化の相の下に見よ」という新たな進化論が記されていた。あらゆる分野を学んだ立花さんが万物の歴史は全て進化の歴史だと語る言葉から始まっていた。...その進化の果てに脳を発達させて生まれた人類。その次の進化の舞台こそ知だという。人類の知は今後相互に影響し合いさらに複雑化。個々の人の意識が蜘蛛の巣のように絡み合う。それにより人類全体がより高次の意識を持ち、次のステージに立つ、と立花さんは記していた。
  7. 動物の場合、世代をこえて伝承される情報は遺伝情報しかない。しかしヒトの場合は、はるかに大量の情報が言語情報として世代をこえて伝えられていく。これは人間だけが獲得した新たな遺伝の形式だという。人間の持つあらゆる知識が総合されて一つの一貫した体系として共有されるようになってきた。これらの動きの延長上に、人類全体が一体となって思考するような日が来るだろう。超人類の誕生であり、超進化、ヒトという種のレベルをこえた進化が実現する。
  8. 立花さんが最後に夢見たのは、一人一人が自らを学びより高い知を求め集積していくこと、そして人類全体が一体となってより高い次元の思考ができるようになる次の進化だったのでしょう。永遠に続く知の循環の中で、自分が次の進化の一部に貢献できたとしたら、無になることはむしろ本望だ、そう思っていたのではないか。【そのあと、立花さんが「眠る」大樹の前に友人たち集まるシーンがあり「立花さんは光の中にいました」と述べられた。立花さんが晩年に小学生向けに行った講演シーンで放送は終了】

 ここからは私の考えになるが、私自身は、進化は上記に記されているような発展性、方向性のあるものだとは思っていない。もっと乱雑に変異が起こり、その中で環境変化に適応した種が残っていくものに過ぎない。但し今と似たような地球環境のもとでは、多細胞生物、そして言語行動を身につけたヒトのように進化しやすい条件が揃っていたことは確かであろう。
 「高い知の集積」とか「人類全体が一体となってより高い次元の思考ができるようになる次の進化」という点についても、私自身は悲観的である。そもそも、人間の知は、何らかのニーズのもとで発展してきた。それは当初は獲物の獲得、作物の栽培、道具の製作、病気の治療といった個々の「知」として集積してきたが、それらは必ずしも普遍的な知としての方向性を持つものとは限らない。また、科学の発展は必ずしも自由主義とは連動しておらず、そのうち全体主義や極端な宗教が人類を支配することも無いとは言えない。もちろん、数千年、数万年も経てばようやく理想社会が実現するかもしれないが、それに到る前に破壊や殺戮の時代が来ないとは限らない。要するに、まことに残念ながら、いまの人類の進化は理想にはほど遠く、一致団結して知を体系化していくようなレベルには達していない、というのが私の率直な考えである。
 あと、放送の終わりのあたりで、立花さんが「眠る」大樹の前に友人たち集まるシーンがあり「立花さんは光の中にいました」と述べられていたが、これは、「死の向こうに死者の世界とか霊界といったものはない。死んだら全くのごみみたいなものとなる。」であるとした立花さんの本意に反するものであるようにも思う。立花さんを偲ぶということであれば、著作や音声記録などを引用しながら「知の進化」の可能性を語り合うということに徹するべきであり、どこかに魂が宿っているというような勝手な解釈に結びつけるべきではないと感じた。