じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡大・文学部南側の中庭には、毎年、巨大輪タンポポが出現している。2016年より繁殖しているものの、いくぶん小型化しており、今のところ直径5cm以下となっている。写真上は腕時計(外径4cm)との比較。写真下は普通のタンポポ(画像内右上の円内)との比較。右枠の写真は、2016年撮影のもの。

2022年4月7日(木)



【連載】『まいにち養老先生、ときどき… 2022冬』その5「鴨川の流れ」「マンガミュージアム」

 昨日に続いて、表記の番組(NHK-BSP 2022年3月26日初回放送)のメモと感想。

 養老先生が京都を訪れた時のシーンの中に、鴨川の三条大橋からカモたちを眺めるところがあった。養老先生は鴨長明の『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず」を引用し、「鴨川はあるんだけど、それを『鴨川』と言うと情報化しちゃう。時が流れているでしょう。その時の中をずっと一貫して鴨川があるということ。動かない鴨川ができちゃう。実体である水は、見る瞬間見る瞬間に入れ替わっている。そっちのほうを注目している。」と語っておられた。なお、この時のエピソードは、「組織の中でのストレスに耐えきれなくなった先生は57歳で東大を去ります。長い間、抱え続けた違和感はのちに『バカの壁』という一冊になりました。...東大を退官したあと、先生の世界は広がりました」というナレーションを経て、2006年から10年間、館長を務めた京都国際マンガミュージアムでのシーンにつながった。

 養老先生が東大を退官した経緯は存じ上げていないが、ウィキペディアによれば1995年の退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を務めたと記されており、一定期間は大学の専任職にあったようだ。
 鴨川の「ゆく河の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず」はその通りだと思うが、もともと、「川」とか「水」というものは、人間が自然界の一部を切り取って言語化したものであって、どのように切り取るのかは人間側の利便性に依存している。なので、どのように捉えても、「情報化」のしがらみからは逃れられないように私には思われる。例えば、放浪の旅を続けている人にとっては「そこに川がある」という情報は、移動を妨げる重要な情報となる。そのことを知った時点で放浪者は、橋のある場所を探すか、流れの強さや深さについての追加情報を得た上で川を渡らなければならない。また、飲み水を探している人にとっては、流れの強さや深さは問題ではない。川の水が澄んでいて飲み水に適するかどうかが重要な関心事となる。水に注目すれば「実体である水は、見る瞬間見る瞬間に入れ替わっている。」ということになるのだが、川の流れとともに水の分子が常に入れ替わっているということは、人間が水を利用する上ではあまり有用な情報ではない。




 続いて、京都国際マンガミュージアムで、ウスビ・サコ先生と対面するシーンがあった。ウスビ・サコ先生はマリ共和国出身で日本に来て31年になる。2002年に日本国籍を取得し、2018年4月から京都精華大学学長をつとめておられる。

 ウスビ・サコ先生は、マンガミュージアムに並べられている単行本を見ながら、「なんでみんな外国ふうの人を描くのかな? 鼻が高くて 金髪で」という疑問を発せられた。養老先生は「人間って面白い。自分が普通に持っているものはありがたくない。」と応じられた。確かに、少女漫画の中にはそういう傾向が見られるかもしれないが、私が学生時代に読んでいた『ガキデカ』、『男おいどん』、『三丁目の夕日』など、あるいは私はあまり好まなかったが、スポ根とか各種劇画風のマンガでは別段、「鼻が高くて 金髪」に描かれていたわけではなかったように思う。なので、日本のマンガ文化にコンプレックスがあったのかどうかは断定できないように思う。但し、マンガは、単純化された線だけで登場人物の感情を表現する必要があるため、感情を面に出さない日本人風の顔では描くのが難しい。特に目玉はどうしても大きくなる。

 ウスビ・サコ先生はまた、社会の中に壁を感じたエピソードとして、
よくあるのが京都のおばあさんで、道を私が日本語で聞いても「英語分からへん」って一点張り。おばあさん日本語だよと言っても「英語分からへんねん」ってずっと言うんです。
と語っておられた。養老先生は「やっぱり頭で見ているんですね。目で見ていない。」と応じられた。この話は、ちょっと逆ではないかという気がした。そのおばあさんは、ウスビ・サコ先生を外見から判断して「この人は外国人なので英語しか通じない」という固定観念のもとに「英語分からへん」の一点張りになったと推測される。この場合、固定観念があるのは「頭で見ている」ことによるが、相手を外見で判断している点は「目で見ている」部類に属する。なので、「外見というフィルターをかけて見ているんですね。しっかりと頭で判断できていない。」とするべきではないかと思われた。

 次回に続く。