じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 4月1日の岡大構内は、新入生や保護者、部活動の勧誘員などで賑わっていた。写真上は、お花見をする黒正巌先生像。その下の2枚は生協食堂前の勧誘風景。
 公式サイトによると、
  • 4月1日(金)〜4月7日(木) 学部等別新入生オリエンテーション(学部等により実施日が異なる。)
  • 4月2日(土) 入学式
  • 4月4日(月)〜4月6日(水)正午 新入生英語外部検定試験(GTEC)
  • 3月28日(月)〜4月6日(水)正午 教養教育科目に関する抽選・クラス分け説明会
となっていて、新型コロナはまだ収束していないものの3年ぶりにキャンパス内の賑わいが戻りそうだ。


2022年4月2日(土)



【連載】『まいにち養老先生、ときどき… 2022冬』その3「不要不急」「学生運動の自然消滅」

 4月1日に続いて、表記の番組(NHK-BSP 2022年3月26日初回放送)のメモと感想。

 放送では、続いて、「不要不急」についての短いエピソードがあった。養老先生が朝日新聞に執筆されていた文章が引用されているという『危機を生きる―哲学』(斎藤慶典、2021年)が机上に置かれていたが、私自身は拝読したことが無いので、不要不急についてどのように語られているのかは何とも言えない。但し、タイトルだけに限ってある程度長く生きてきた私のような者から言わせてもらえるなら、「危機の時代」はどの時代にも当てはまるものであり、パンデミックはそのうちの1つに過ぎないように思われた【戦後に生まれ、どうにかこうにか次の世界大戦が始まる前に一生を終えられそう、という点では、私の生涯は危機の無い時代であったと言えるかもしれないが】。
 「不要不急」についてはもう1つ、大学紛争時代のエピソードが語られた。解剖学教室の助手であった時代、過激派から「お前のやっていることは不要不急だろう」と言われて研究室から追い出されたことがあり今でも腹が立っているという。このエピソードはウィキペディアにも以下のように記されている。
若かりし日に、全共闘の連中がやってきて養老に対して言い放った暴言や、やらかした学問に対する暴力のことは忘れておらず、自身の思想を深めるのに活かしてきた。研究室の助手をしていた頃、当時盛んだった全共闘運動の被害を受けた。研究室がゲバ棒を持ち覆面を被った学生達に押し入られ、「こんな一大事に研究なんかしている場合か」と非難されながら研究室を追い出された経験をして以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。そのような過去の経緯もあって、かつて東大の全共闘議長であった山本義隆の『磁力と重力の発見』が第30回大佛次郎賞を受賞した際に、養老は当時、同賞の選考委員でありながら、著作への授賞に異存はないとしつつも、自らが全共闘運動から受けた影響(全共闘運動により研究室から暴力的に追い出された)などを理由に「(個人的な)背景を含めた選評は拒否するしかない」という強い調子の文章を発表して話題となった。
 このことで思い出したが、私も学生時代、専門基礎科目の英語の授業中、白ヘルの外人部隊(他大学の学生など)が教室に乱入し、授業を中止してクラス討論会を始めろと要求されたことがあった。別の日、この白ヘル集団が教養部の出入口付近で署名を行っていた時には、署名を拒否した学生を拘束して土下座させ自己批判を求めていたことも目撃した。
 もっとも、こうした過激派集団の活動は私が学部を卒業した1975年頃には散発的となり、大学院を終える頃にはほぼ消滅した。岡大でも、私が赴任した当時にはまだ白ヘル集団が残っていて、岡大西門の南東角や大学会館前に立て看を立てていたのを記憶しているが、その後立て看は朽ち果てて撤去され、中高年化した活動家の姿も見かけなくなった。
 興味深いのは、こうした学生運動は、弾圧で消滅したものではないということだ。(全員とまでは言えないにしても)学生の多くが政治活動への興味を失い、後継者が居なくなったことで自然に衰退していったということかと思う。その原因がどこにあったのかはよく分からない。ベトナム戦争が1975年に終結したことも一因であろうし、ソ連の崩壊によってイデオロギー的な2極対立が無くなったことも重要、さらに多様性重視や持続可能な社会を構築する運動が反体制的では無くなってきたことも大きいのではないかと思うが、とにかく、人の力で大きく変わったというよりは、養老先生も言われる「なるべくしてなった」という印象が強い。

 とはいえ、小規模な対立は今でもいろんな場面で起こっている。放送では、
あれからしみじみ思うのは、いわゆる政治的な動きは、時間がたつとだんだん中立の立場がなくなる。なにをやっても、どっちに有利かで判断される。2つの極が対立しちゃうと。お前のやっていることはこういう意味で相手方に有利だとなると敵と見なされる。だから「中立なんてない」となっちゃう。そこに持ってちゃいけないんですよ。
という語りと、「時代に翻弄された経験が何にも与しないその後の人生のあり方を決定づけました」というナレーションで結ばれていた。

 ここからは私の感想・考察になるが、「対立」というと弁証法的な発展という言葉が思い浮かぶが、世の中の諸々の出来事を見てきた限り、そういう対立が本当に発展をもたらした事例がいくつあるのか、甚だ疑わしいように思う。単に対立が無意味化してその隙間を埋めるような新しい価値観が生まれてきたか、あるいは対立軸の一方が自然崩壊して残ったものに吸収されていったか、そんなところが多いような気がする。

 あと、私自身の大学時代は、バリケード封鎖の影響などで教養科目の授業は殆ど行われず、専門科目も出欠は自由、大学院の演習科目は教授と発表者以外は全員欠席というようなことが多々あったが、それはそれで私の勉学にはまことに好都合であった。要するに、興味の無い科目は無理に出席する必要はない。その分、好きな科目に関連する本をたくさん読むことができるというメリットがあった。こういう「自由な学風」のもとでは、麻雀に明け暮れていても卒業はできるが、学問を志そうとする場合は、相当程度、自学自習に努める必要が出てくる。先生の言われる通りに課題をこなすとか、期末試験で合格するというだけでは何1つ身につかないからであった。もっともこれは個人的な良き思い出に過ぎなかった。私自身が大学の教員になってからはファカルティ・ディベロップメントが重視されるようになり、私自身も全学のFD委員長を仰せつかり、授業評価、履修登録上限制、学習目標・到達目標の明記など、授業改革に取り組む立場に身を置くことになった。

 次回に続く。