じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 3月20日の朝はよく晴れ、南東の空では金星と火星が並んで光っていた。金星と火星は3月12日に4°まで接近。また金星は3月20日に西方最大離角となる。

2022年3月20日(日)



【連載】ヒューマニエンス「“時間” 命を刻む神秘のリズム」(5)「今」には時間の幅がある/時間と時刻と順序

 昨日に続いて、2021年12月16日に初回放送された表記の番組についての備忘録と感想。

 放送の終わりのあたりでは、為末さんが現役選手の時に感じた「ゾーン」という特別な感覚と、「いま」との関係が論じられた。「ゾーン」というのは、金魚鉢を頭にかぶった感じて周りの音が聞こえなくなる状態で、為末説によれば「速く走ることだけに脳のリソースを集中させている状態」であり、バッティングセンターでボールを待ち構えている状態ではなく、ボーッとしていたら横から何かが飛んできて払いのけるような状態であるらしい。北澤先生によれば、脳がリソースを集中させている時は楔前部への血流は落としており、今もここも私も無い「無我の境地」にはいっている可能性があるという。為末さんの「ゾーン」については、「瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する」でも拝聴したことがあるが、ある種の瞑想に近いものがあるようだ。

 最後のところでは、出演された3人の方から
  • 北澤先生:時間の研究を糸口にして、「ここ」「私」も含めた意識・心が脳のどこに宿るのかを明らかにしていきたい。
  • 上田先生:マウスや様々な動物の細胞の活動が見られるようになったことを利用して、癌の転移や老化によりどのような変化が起こるのかを解明。
  • 為末さん:時間というのは私たちが作り出したもので当たり前ではない。時間に追われた今は、むしろ「今」に集中することが大切。
といった展望や感想が述べられた【←あくまで長谷川の聞き取りによる】。

 ここからは私の感想・考察になるが、まず、昨日も取り上げた「今とは何か?」という問題については、放送の中で指摘された点以外にもいろいろな捉え方ができるように思う。じっさい『新明解』でも、「今」は
  • その話し手や書き手が何かをしている(何かの状態にある)瞬間を静止的にとらえたもの。現在の時点。
  • 現在の時点に、多少の幅を加えたもの。
というようにある程度の幅を持たせている。
 例えば「今、何をしている?」という質問に答えようとしても、時間の幅を持たせることなしには自分の行動を報告することはできない。また「今、本を読んでいる」というのもウソであって、厳密には、

今、私は、「今、本を読んでいる」という言葉を発している最中である。

が正解ということになるだろう。

 日常生活の中での「今」とは、普通は、ある文脈の中で、ある程度安定した状態のことを示す約束事のようなものであろう。「いま、ここ」と「いま、そこ」、さらに「私は」、「あなたは」、「あの人は」といった認証表現は、視点の取得(視点取り、perspective taking)に関わるものであり、言語行動の一環である。北澤先生が語られた「「いま」「ここ」「私」が脳のどこに宿るのか」という問題は、言語行動との関わりの中で明らかにされていくものであると思う。

 次に、今回のメインテーマである「時間」であるが、時間知覚のうちのあるものは、順序の知覚に置き換えることができる。そもそも我々は、1秒間、1分間、1時間といった時間経過そのものは知覚できない。時間あてゲームでは、過去にそれらの時間を体験した時の感覚と比較しながら、「1分よりはまだ短い」、「そろそろ1分より長くなってきたみたい」といった感覚を頼りにして「はい、1分が過ぎたと思います」と答えるのである。「どちらが早い(速い)」を知ることは適応的に有用であるが、両者を同時に比較することができない時は、時間の差で比較する。例えば競走種目や競泳種目では8人前後の選手が一斉に出場するので、時間を計らなくても誰が一番速いかを調べることができる。しかし、スキーーの大回転とかスピードスケート種目では、同時の比較ができないので、タイムを測定しなければならない。
 順序の知覚の中でも特に重要なのは「どちらが先に起こったか」である。「どちらが先に殴ったのか」はもちろん重要であるが、一般にはどちらが先であるかが因果関係の把握に繋がることもある。

 前半で取り上げられた体内時計は、時間ではなく時刻を知るものであるかもしれない。じっさい、時差ぼけというのは、時刻が変わることへの不適応である。もし体内時計がストップウォッチのように時刻ではなく純粋に時間を計る装置であったとしたら、地球の裏側に行った時にも、朝食を食べて6時間も経てば昼食を食べたくなるはずだが、実際にはそうはいかない。

 もちろん、日常生活の中でも、純粋に「時間」が重要な手がかりとなる場合はある。カップラーメンにお湯を入れてから待つ時間、目的地までの所要時間などである。また近代の産業社会では、出来高払い制度よりは時間労働のほうが、よりより労働環境を確保できるとされている。

 なお、行動分析学的に言う「いま」とは、少なくとも1回の反応が起こり、その反応に何らかの結果が伴うまでの間は、「1つのいま」となる。反応の途中で区切ったり、反応と結果を別々の「いま」に分けても、「いまの行動」を捉えることはできない。一般に、「反応の直後に結果が伴う」と言う時の「直後」とは60秒以内であることが経験的に知られており、そういう意味では「今」の最小単位は、北澤先生の研究で示された0.1〜0.3秒ではなく、もっと長い60秒前後ということになる。もちろん、文脈によってはそれより短い場合もあれば長い場合もありうる。話し手と聞き手が同じ時間枠を共有している限りにおいては、
  • いま、幸せだ←何ヶ月、何年間にも及ぶ
  • いま、中学生だ←3年間
  • いま、歯が痛い←何時間、何日も続く
  • いま、通学している←通学所要時間に依存
となる。