じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡山市保健管理課から、新型コロナワクチン3回目接種の案内状が届いたので、さっそくインターネットで予約をした。前回はインターネットで予約できる医療施設が近隣になく妻に送迎してもらったが、今回は近隣の施設が予約可能となっていたので、徒歩で通院できそう。
 ちなみに、インターネットでの予約に際しては、接種券番号とパスワードを入力する必要があるが、これらは、1回目・2回目の接種時と全く変わらなかった。郵送の案内状が届いた後で予約を開始できるというように伝え聞いていたので私自身も郵便物の到着を待っていたが、実際は、手元に接種券が届いていなくても、前回のマイページから予約ができる仕組みであったようだ。もっとも、日曜日にマイサイトにアクセスした時には、まだ3回目接種の手続はできないようになっていて、接種可能な医療機関もわずかな数に留まっていた。ネットの受付はおそらく、1月18日か19日の朝から開始されたものと推定される。
 私が予約した医院は、接種可能な時期が2月中に設定されていたが、1月20日までに定員に達したのは2月10日までであり、中旬以降はまだ予約可能な状態になっていた。1回目・2回目に比べると、それほど慌てなくても予約できるようであった。
 なお、案内状には「ワクチン」という言葉が4カ国語で表示されているが【左の画像参照】、これらは英語、中国語、韓国語、ベトナム語(「vac xin」)の順であった。じっさい岡山県内の国別の外国人数(2020年末現在)を見ると、1位がベトナムで10368人、2位が中国で7406人、3位が韓国で4610人、4位がフィリピンで2021人などとなっており、ベトナム語が4言語の1つに含まれている理由がよく分かった。


2022年1月20日(木)



【連載】瞑想でたどる仏教(26)「一切皆空」

 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

のメモと考察。

 前回までのところで、瞑想中に起こるマイナスの反応は多種多様であり、『摩訶止観』ではそれぞれの状況に応じた対処法(治法)があるという話題を取り上げた。『摩訶止観』ではこれとは別に、どの状況にも対処できる「万能薬」についても紹介しているという。これは、大乗仏教の理念に基づくものであり、「第一義悉檀(だいいちぎしっだん)」と呼ばれている。一言で言えば「一切は空である」と了解することが解決策になるということ。大乗仏教では、

●一切は条件により成立してきて仮のもので私たちの目の前に現れている。実は実体はないものである(=「空」)

私たちが悩んでいる世界も本来は実体が無く、私たちの心がが作り上げた世界であるという了解に基づいて、瞑想を阻害する要因を越えていこうとするもの。要するに、「空」という道理を知ることで、すべてのものに打ち勝つことができるという表現であるという。大乗仏教では、先に到達点を示して瞑想で少しずつ近づいていくという方法、つまり大乗の世界の1つの特徴として、「一切皆空(いっさいかいくう)」、すべては心が作り出したものという了解をぽんと出して、そこのところを踏まえた上で実際にやっていきましょうという方法をとっていると説明された。

 このシーンのところで為末さんから「一切は空であるとすると、善悪も空として捉えられる気がする。そうすると、既存の善悪(社会の規範)から離れた人に、これが新しい善悪であるという新たな基準を頭の中に入れてマインドコントロールすることができてしまうのではないか?」という疑問が投げかけられた【←長谷川の聞き取りによる】。これに対して蓑輪先生は、
善も悪も私たちの心が作り出した判断であるというところは認めるが、しかし善悪が仮のものであっても、現実にちゃんと存在している。一定の規範として存在しているものに対してはそれを越えないようなところを大事にしていく。いろいろなものを手放していきながら、社会の中でどうあるべきかは説いている。そこのところが歯止めになっている。他者性みたいなところを「慈悲」というところできちんと担保している。
と説いておられた。要するに、瞑想の修行することは「世の中はどうでもいいよ」ということではなく、社会の中できちんと生きていくことが大切であり、じっさい釈迦は、悟りに到達した人が社会でどうあるべきかをきちんと説いており、それが慈悲ということになる【←長谷川の聞き取りによる】。




 ここからは私の感想・考察になるが、まず、「万能薬」とされた「第一義悉檀」については、コトバンクの孫引きでは、
仏の教法を、衆生の悟りの完成という観点から整理しようとしたもので、これに世界悉檀・各々為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の四つを説く。仏の教説には一見矛盾するように種々のちがいがあっても、それはこの四種の別によることを明らかにするもの。
と記されているものの「第一義悉檀」についての説明はなかった。さらにネットで検索したが、専門用語が多く、私には理解困難であった。

 「一切皆空」の「空」については12月7日のところでも取り上げられていたが、私自身はイマイチ納得できないところがある。もちろん、この宇宙を物質、反物質、エネルギーのようなレベルで捉えるならば一切は空であると言えないこともないが、少なくとも地球環境、そしてそこに暮らす生物はちゃんと実在していると思う。サバンナを放浪中、目の前にライオンが現れた時に「一切は空」などと叫んでもライオンは「そうか、ではお前を喰う」と反応して食べられてしまう。そのさい、当人は、食べられる前が空ではなかったことを、食べられる瞬間に悟ることであろう。
 でもって、この世界は確かに実在するが、人間はそれを言語的に構成したうえでそれに対処していく。どのように構成するのかというのは、環境に適応する上での有用性の影響を受けるゆえ、一義的ではない。上掲の善悪の問題もそうであり、あくまで人間が作り上げたものにすぎない。

 ここで唐突にマズローの話が思い浮かんだが、マズローの言う生理的欲求とか、安全の欲求というレベルは、人間が地球生物として生きていくための必要条件にも対応しており、いくら「空」であると叫んでも、その制約から逃れることはできない。いっぽう、それより上のレベルである、社会的欲求、承認の欲求、自己実現の欲求、などは、人間が、よりよく生きるために作り上げたものであって、「空」と言えば「空」であるものの、そういう上のレベルがあればこそ、他の動物とは異なる「人間らしい」生き方を可能にしているとも言える。であるからして、私自身の考えとしては、
  • 人間は地球環境のもとで進化した動物であり実在している、ということを理解する。
  • いわゆる「心の働き」とされているものは、人間が新たに獲得した言語行動の機能である。
  • 「人間らしい」生き方を「一切皆空」と片付けてしまってよいとは私には思えない。しかし、それは言語的な構成物であるゆえ、組み替えたり、距離を置いて観察することができる点にも留意する必要がある。
といった点に落ち着くのではないかと思っている。

 次回に続く。