じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 ウォーキングコース沿いで見かけた露地植えの柑橘類。実の形はレモンのように見える。


2022年1月18日(火)



【連載】瞑想でたどる仏教(24)入息出息観、十乗観法

 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

のメモと考察。

 昨日までのところで、煩悩のタイプのうち、貪欲、瞋恚、愚痴のタイプに対する治法について取り上げた。
  • 貪欲(とんよく):食欲や色欲など、むさぼりの気持ちが強いタイプ。
  • 瞋恚(しんに):怒りの気持ちの強い人。他人の横柄な態度などの腹立たしいことが浮かび、イライラするタイプ。
  • 愚痴:愚かさが強く、見聞きしたことや物事の道理を理解できないタイプ。瞑想中も頭の中で右往左往する。
  • 等分:上記3つのタイプがどれも等しく存在しているタイプ。
 残る「等分」であるが、『摩訶止観』では念仏を唱えることが治法として推奨されているという。放送では「南無妙法蓮華経」の唱題が例示されていたが、「南無阿弥陀仏」でも同様の効果があるはずだ【1月5日に関連記事あり】。
 もっとも、純粋に、煩悩を起こしにくくするための手段として活用するのであれば、例えば、
  • 好きな歌を歌い続ける。
  • ピアノやギターを弾き続ける。
  • 操縦シミュレーションソフトに集中する。
  • 駐車場で交通整理をする。
  • ひたすらジョギングやウォーキングに集中する。
というのも同程度に治法として有効ではないかという気がする。要するに、煩悩が生じる仕組みやそのタイプ、治法といったプロセスは、宗教に直接結びつくものではない。科学的な分析ではたどり着けないような超越的な存在を前提にしているわけではないので、宗教的な概念や用語を用いない形で体系化することができるのではないかと思われた。

 さて、1月13日の日記で引用させていただいたように、『摩訶止観』によれば瞑想中に生じる代表的なマイナスの反応には以下の4つがあるということであった。
  1. 煩悩:心身を煩わせ悩ませる精神作用
  2. 思覚(しかく):あれこれと考えてしまうこと
  3. 業相境(ごうそうきょう):過去の体験が報いとして現れること
  4. 魔事境(まじきょう):幻覚的なもの
 このうち2.の「思覚」とは、瞑想中、思いに反してさまざまなことが頭に浮かぶ状態のことを言う。これに対する治法として推奨されているのは「入息出息観」である。絶え間なく入れ替わる空気の流れを意識し続け、呼吸のことで頭をいっぱいにしてあれこれと考える余地を無くすことができる。

 3.の業相境は、忘れたい出来事から懐かしい思い出まで、普段は意識していなくても記憶の底に蓄積されてきた出来事が不意に現れ心を捉える。これに対して推奨されているのは「十乗観法」と呼ばれる10の瞑想方法である。リンク先によれば、これには、観不思議境・真正発菩提心・善巧安心止観・破法遍・識通塞・道品調適・対治助聞・知次位・能安忍・無法愛という段階になっている。例えば、辛い記憶が湧き上がった時は、まず「観不思議境」で「人の心はざわめくのが当たり前だ」と捉え、「破法遍」で「言葉という仮のもので過去を評価しても意味は無い」ことを理解し、最後の「無法愛」では「そうして到達した境地でさえも手放す」。こうして、過去にとらわれてしまう心を受け入れた上でそこに執着しないことで心の揺らぎを押さえる。

 ここからは私の感想・考察になるが、私には、前回までに取り上げた煩悩と、今回取り上げた思覚、業相境の区別がイマイチ分からないところがあった。煩悩のうちの貪欲は確かに別物であり異性や食べ物に対する直接的な欲求に関するものであるようだが、瞋恚というのは目前の対象ではなくて、最近起こった出来事に対する感情反応であって、思覚や業相境と連動しているように思われる。さらに、思覚と業相境の区別もよく分からない。「あれこれと考える」ということは大概は過去の出来事が関係しているし、「いま考えている」というのも実際には「これから先どうなる?」と連動しており、明確には区別できないような気がする。

 それはそれとして、十乗観法はなかなか奥深い構成になっているようだが、ネットでいくつか検索した限りでは、平易な解説は見当たらず、私には理解できそうにもない。

 次回に続く。