じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 これまで、本を読んだりパソコンで作業をしたりする時には100円ショップの老眼鏡で間に合わせてきたのだが、最近になって、約3メートル離れたテレビ画面の字幕や番組表の文字が見えにくくなるなど、ますます視力の衰えが顕著になってきた。眼科で精密検査を受けたところ、緑内障は無し、白内障は年相応ということで、これを機会に、自分専用の眼鏡を作ることになった。当面、この眼鏡で左右1.0と0.9の視力を回復できることが分かった。

 初めて眼鏡をつけて運転して驚いたのは、実際に運転しているのは軽自動車なのに、以前運転していたノアのように車高が高く感じたことであった。じっさい、前の車のナンバープレートを裸眼と眼鏡着用時で比較すると、眼鏡着用のほうがプレートが低い位置に見えている(つまり自分が高い位置にいるように見える)ことが分かった。
 そのあと眼鏡を付けてスーパーの中を初めて歩いたところ、まるで竹馬に乗って歩いているかのように、背が伸びて高い位置から見下ろしているような景色になった。
 おそらく、老眼鏡は凸レンズであるゆえ、裸眼の時に比べて視野が上下に引き延ばされて見えるため、視野の下半分が裸眼時より足もとに近いほうに見えてしまうことで、そのような錯覚が起こったものと考えられる。

 なお、今回眼鏡を新調して初めて知ったことだが、眼科での診断や眼鏡処方は健康保険の対象になるが、眼鏡代金は、幼児の弱視矯正の場合などを除いて100%自費負担になる。【自費負担のほうが良いものが作れるとはいえ】歯医者で入れ歯を作った時には保険適用になるし、補聴器も(保険適用外だが)条件が揃えば補助金が貰えるという。要するに、加齢による視力の衰えは必然現象であって、疾病には該当しないということだろうか。とはいえ、高齢の年金生活者にとっては、眼鏡や補聴器や保険適用外のインプラント装着などを自費負担することは困難になる。なお、車椅子や電動ベッドなどは、健康保険ではなく介護保険でレンタル・購入できるらしい。いずれにせよ、医療保険に入っていれば何でも安心ということにはなりそうもない。保険適用外となるような支出としてどういうものがあるのかを調べ、それなりの資金を準備しておく必要がありそうだ。

2021年9月14日(火)



【小さな話題】Q〜未来のための対話 教えて!養老先生×落合先生(2)「人間らしい」ってどういうこと?

 昨日に続いて、NHK Eテレで8月23日19時25分〜19時55分に放送された、

●「Q〜子どものための哲学」に寄せられた「未来」についての疑問を先生たちにぶつける番組

についての感想と考察。

 子どもたちから寄せられた2番目の疑問は、
あんり(12歳)の疑問:たとえばテクノロジーが発達して賢いロボットが何でもやってくれるようになると、そのぶん人間は時間ができていろいろなことができるようになるのではないかと想像している。私は、その与えられた時間で、ロボットにはできない「人間らしいこと」をやればいいと考えている。でもそもそも「人間らしいこと」って何ですか? ロボットが代わりにやってくれている掃除や料理は人間らしくないの?


 この疑問に対して養老先生は、
あんりちゃんは掃除や料理をそれだけのものと思っているが、でもそれはいろんなことで繋がっている。お母さんの子どもに対する愛情とか、家族に対する気配りとか、いろんなことが入っている。こういうロボットとかAIの話をすると、いろんなことが落っこちている。その落っこちたモノが人間らしいことじゃないですかね。
 また落合先生は、
人間らしい豊かな時間は、自分で時間を味わえる時間。皿を洗っている時、僕は非常に楽しい。ネコのウンチを集めている時も非常に楽しい。ロボットにやらせることもできるし、毎日ネコのウンチを捨てるのはめんどくさいのでやりたくない。たまにやるぐらいがちょうどいいことが、世の中に増えてくる。...あと、進歩のなさとか、失敗を繰り返している時、ああ人間らしいなぁって、よく思っているが、失敗を味わい深いものと受け止める心も大切。
と述べておられた。

 「人間らしいと思われる時ってどんな時ですか?」という問いに対して、養老先生は、
虫を捕ろうと思って天気のいい日に山の中を歩いている時。さもなければ捕ってきた虫を標本にしようと作業している時。いまやっていることに集中して、他に何もない無心な状態にある時。
 落合先生も、
夢中である瞬間は心地よい。ゆっくり過ごしている時もそう感じる。
と答えておられた。

 ということで、「先生たちのこたえ」としては、
いろいろな想いや感情。それが人間らしさ。相手のことを思いやったり、失敗して悩んだり、何かに夢中になったりすることが「人間らしさ」
 なお、以上の議論からの派生として、

●いろいろな想いや感情のない未来のロボットは僕たち間をどこまで理解してくれるのだろう?

という疑問が出されたが、養老先生は、
私がどこかにぶつかって痛そうな顔をしている時に、あの人痛そうだなあくらいはロボットでも理解できるだろうが、人間の気持ちはもっと複雑。複雑な状況の中で、どういう気持ちでいるのかを何でも理解してくれるロボットはできるでしょうか。僕はそういうロボットはひょっとしてできないんじゃないか、いや、作ってもあまり意味がないんじゃないか。なぜかというと人がいるから。
と述べておられた。これについての落合先生の意見は番組では特には表明されなかった。




 ここからは私の感想・意見になるが、まず、そもそも、当初のあんりちゃんの質問にあった、
  • 人間らしいこと:ロボットにはできないこと
  • 人間らしくないこと:ロボットにもできること
という二分は間違った見方であるように思う。ロボットやAIでも、将棋はできるし、最近では自動運転の車も開発されている。それでもなお、自分で将棋をすることは楽しいし、ドライブを楽しむ人もいる。要するに、「人間らしいこと」は、自分で行動することと結びついており、自分で行動することに、いろいろな想い(言語反応)を付加できれば、ロボットができることであっても人間らしい行動ということになるのではないかと思われる。もっとも、「いろいろな想い」が過剰に付加されてしまうと、それにがんじがらめにされてしまって、「行動とその結果」という直接効果的な随伴性がもたらす喜びを享受できず、いつのまにかこしらえてしまったルールに縛られてしまうことがある。そういう場合には、「想い」と行動を分離するセラピーも必要になる。

 養老先生が指摘されたように、掃除や料理といった行動は、単独の強化随伴性だけで維持されているものではない。さまざまな行動、あるいはそれによって派生する感情反応を含めて、大きな文脈の中で遂行されている。この日記でも何度かとりあげたことがあるが、例えば自転車通勤という行動は、その人が地球温暖化防止の一環としてマイカー通勤を止めているのか、それとも健康増進活動の一環として自転車通勤をしているのか、あるいは単に、景色を楽しむためにサイクリングロードを通って通勤しているのか、によって、他のどのような諸行動と連携しているのかが全く異なってしまう。1つの強化随伴性のなかで行動を断片的にとらえるのではなく、より巨視的で、中期的・長期的な観点からその行動を意義づけ、諸行動と関連づける視点が求められる。そうなってくると、個々の行動がロボットでもできるかどうかは大した問題ではない。

 あと、落合先生が挙げておられた「皿洗いやネコのウンチ回収は、たまにやるぶんには楽しい」という事例であるが、これは、

●その行動をしなければ、じきに嫌子が出現したり好子が消失したりするが、行動を続けていれば、それらの変化を阻止することができる。

という「阻止の随伴性」(嫌子出現阻止の随伴性、あるいは好子消失阻止の随伴性)に関連しているように思う。阻止の随伴性で遂行されている行動は、義務的な行動であり、何かに押しつけられていやいや行動しているように感じられる。この場合は、人間らしさは感じられない。
 そのいっぽう、

●その行動をしなくても平穏な状態は続くが、行動した時には好子が出現する

という「好子出現の随伴性」で維持されている行動は「やりたいからする行動」というように感じられる。これらの違いは、スキナーが指摘した通りである。(こちら参照。但しスキナー自身は「阻止の随伴性」という言葉は使っていない)。

 いずれにせよ、行動そのものが、人間らしい行動と、人間らしくない行動に二分されるわけではない。ある行動が人間らしい行動になるかどうかは、それがどういう随伴性によって強化されているのかによって決まってくる。

 次回に続く。