じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 一時的に姿を現した旭川の洗堰。長雨のあと、真夏の天気が戻り、旭川の水量が低下したため、洗堰全体が姿を現した【9月1日撮影】。もっとも、その後、秋雨前線の停滞により、またまた雨が続いており、9月3日朝7時時点での72時間積算降水量は40.0ミリに達している。このあともしばらく雨が降る見込みで、洗堰は再び水没するものと思われる。右は8月26日掲載の写真。



2021年9月3日(金)



【小さな話題】『プロジェクトX4Kリストア版』7月〜8月放送分 その5 YS-11(3)

 昨日に続いて、プロジェクトXの話題。本日は、YS-11の後半、

 ●【8月10日放送】#017『翼はよみがえった(後編)YS-11・運命の初飛行』

 8月3日の前編では、1958年12月11日にYS-11の実物大模型が公開され、この成功のおかげで1959年5月29日には、日本政府を筆頭株主とする日本航空機製造株式会社が設立された。しかし、それまでの研究に貢献した木村秀政、土井武夫、堀越二郎らの「5人のサムライ」たちは身を引いた。すでに60歳を目前にしており、飛行機を完成させる激務には耐えられないと判断したためであるという。

 実際の製造責任者として託されたのは、東條輝雄。東条英機の次男であり、戦前・戦中はロ戦の設計チームに配属され強度計算を担当したり、様々な機種の基本計画の作成、爆撃機などの陸軍の大型機を担当し四式重爆撃機「飛龍」やキ97試作中型輸送機の設計などにあたったという。戦後は空機の研究・設計・製造の全面禁止で閑職となり、水島工場にて自動車の設計を担当したりしていたが、YS-11の実現のため、日本航空機製造に出向して設計部長を引き受けた。

 番組の中ほどでは、1962年8月30日、「5人のサムライ」に育てられた若手技術たちの努力により完成したYS-11が名古屋空港に姿を現し試験飛行に成功、その後、アメリカ連邦航空局(FAA)の認可を受ける試験でかなり深刻な問題2箇所が指摘されたものの無事に克服、番組の終わりのところでは、
初飛行から38年。いまも83機のYS-11が世界の空を飛び続けている。これほど寿命の長い旅客機は殆ど例が無い。しかしYS-11以降、国産旅客機は生まれていない。円高で採算が合わなくなったというのが理由だった【1973年、YS-11製造打ち切り】
というナレーションが入った。

 番組内容は以上であったが、YS-11製造打ち切り、国産機開発中止に至った過程は、「円高で採算が合わなくなったため」だけではなかったようだ。ウィキペディアには以下のような問題点が指摘されていた【長谷川による抜粋、改変あり】。
  1. 日航製造は最大株主が日本政府であり、通産省主導の国策半官企業の特殊法人であったため、職員に公務員気質がはびこり始め、首脳も官庁から派遣されてきた人材(いわば天下り)が増加し、企業経営はうまくいかなかった。
  2. YS-11の販売も、次第に営業方法の悪さが顕わになり、販売網は全く構築できなかった。特に海外においては、歴史も実績も無い初の日本製旅客機であることから信頼性の問題から有力航空会社で相手にされなかったことや、金融の面でも競合機各社が長期繰り延べ低金利払を行っていたことで対抗せざるを得なくなったこと、原価に営業費用を計上していなかったことで製造原価を割った価格で販売を続けたことで、慢性的な赤字状態となっていた。
  3. 原価に、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったことは、国産輸送機の設計・製造のための予算獲得が第一義であったことで、利益を度外視した原価管理であったからである。量産効果によって期待される価格の低減も、製造部門を持たない日航製造ではコスト管理もままならず、生産を請け負った機体メーカ各社もインフレーションによる人件費高騰や部品価格高騰により製造コストが上昇し、納入価格の引き下げには応じられなかった。しかし、競合機との対抗上、値段を下げなければ売れないという悪循環が生まれていた。
  4. 経営の悪化する日航製造はこのような構成各社からの費用請求も重荷となり、赤字が累積する中で、原価を割った価格で販売を続けた。そのため、売れば売るほど赤字が増加する構造となっていた。
  5. 国会でもこの赤字が論議されることになった。これは海外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、米国での営業活動に日航製造の問題が起因していることを会計検査院で指摘されたことが原因である。


 9月1日の日記でも言及したが、その後、期待されていたSpaceJet M90の開発も実質凍結され、日本の航空機設計技術の継承や航空産業復活の夢はすっかり断たれてしまったように見える。もっとも、新幹線技術や宇宙開発はそれなりに成果をあげており、YS-11に託された夢がことごとく頓挫したわけでは決して無いようにも思える。

 ここからは私個人の話になるが、YS-11の試験飛行が行われた1962年は私が10歳の頃であり、その時のニュースはかすかに記憶に残っている。もっとも、私が航空機を利用するようになった1970年代後半にはYS-11は一部の地方路線で運航しているだけであり、そうした区間の移動は鉄道のほうが遙かに割安であったことから、搭乗する機会は一度も無かった。

 次回に続く。