じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 「接写で楽しむ雑草の花」。今回はヒルザキツキミソウ。花の形は昨日掲載のコマツヨイグサに似るが、はるかに大輪。繁殖力も旺盛だが、花壇の花として十分通用する。写真の2色のほか、さまざまな大きさ、色がある。


2021年5月4日(火)



【小さな話題】文字だけで伝達・記録できる内容は、ほんの一部にすぎない

 昨日の日記で、ウィキペディアのチコちゃんに叱られる!の放送リスト削除に関連して、「「番組で見た」内容をそのまま記すことは検証可能性を満たしません」という編集方針が妥当であるかどうか考察した。私の考えは、テレビ番組は、録画、あるいは放送局で保管されているアーカイブ映像などを通じて再生可能であるゆえ、十分に検証可能であるというものであった。

 ただし、ここで留意すべき点は、検証可能というのは、誰が出演したのか、どういう疑問が取り上げられたのか、どのように解答されたのか、といった事実関係だけである。しょせん、文字で記録できることには限界があり、登場人物の動きや細かい表情、発話の間の取り方、音声の特徴、音楽、...などは伝えることができない。

 このWeb日記を執筆している時、たまたま、NHK総合で、

「みんなのうた」は生まれた〜60年を彩った名曲秘話▽山口さんちのツトム君

という放送をやっていた。この放送では、田中ケイコさんのアニメ製作秘話が語られていたが、実際のアニメの映像は文字だけでは伝えようがない。また音楽自体も文字にはできないので、テレビでた蔵の記録だけ見ても、細かいところは全く伝わらない。これは、続いて放送された、そして「みんなのうた」は生まれた〜60年を彩った名曲秘話▽メトロポリタン美術館も同様であり、岡本忠成さんの人形アニメがどんなものかは映像を見ないと伝わらない。そして、この種の音楽関連番組では、肝心の歌については、「山口さんちのツトム君が流れた。」、「メトロポリタン美術館が流れた。」というように1行で片づけられてしまうのである。




 話をさらに一般化してみると、私たちが体験した出来事の中で文字として記録できるのは、いつ、どこで、何をしたという程度の要約に限られている。
 いっぽう、何を見たかということは、今の時代であれば、静止画や動画である程度記録できる。なので、私自身も、どういう花を見たのかとか、旅行先でどういう風景を見たのか、ということは楽天版とか、旅と自然のアルバムなどのような写真アルバムや、動画アルバムとしてで発信するようにしているが、それらも、訪れた世界のほんの一部を画像として切り取っただけに過ぎない。

 さらに言えば、ある出来事を体験した時の文脈情報も大切である。チベットの絶景は、標高4500m前後の薄い空気の中で体験されたものであり、ゴンパの中などには独特のニオイが漂っているが、それらは写真だけでは決して伝えることができない。
 まるごと録画された番組は、映像や音声部分はいつでも再現可能であるが、それが放送された当時の社会情勢までは記録されていない。視る側の受け止め方も、個人個人の文脈によって異なっているのである。

 少し脱線するが、上記と同じことは面接調査についても言える。面接調査による研究は、録音された発話内容の書き起こしを重視しているが、その面接がどういう文脈(体調、環境、人間関係、...)のもとで行われたのか、調査協力者がどういう表情でそれを語ったのかを合わせて記録しなければ、文字情報だけが一人歩きしてしまう恐れがある。

 こういうふうに考えていくと、そもそもWeb日記に記すことはどういう意味があるのか、という重大な問いかけに行き着くことになるが、ま、私の場合は、日記を継続することは、何かしら備忘録として役立っており、もし何も書かずにこの歳まで生きてきたとしたら、遙かに薄っぺらい人生になっていた可能性があるようにも思われる。そう言えば、明後日にはこの日記は執筆開始から満24年を迎えることになる。