じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 このところ、夜明け前から日没後、時には深夜に至るまで、窓の外で甲高いさえずりが聞こえている。オオルリではないかと思っていたが、撮影した写真を拡大してみると腹部が赤く、またさえずりの特徴から、イソヒヨドリであると判明した。
 ネットで検索したところ、近くにある岡山理科大で周年生息しているという報告があった。理科大の敷地からあぶれたオスが新たな縄張りを作ろうとしているのかもしれない。
※写真をクリックすると、音声が聞こえます【但し、m4a形式】。

2021年4月25日(日)



【連載】サイエンスZERO『びっくり!魚は頭がいい』その3 「魚の感情」「ホンソメワケベラの鏡像認知」

 昨日に続いて、4月18日に放送された『びっくり!魚は頭がいい』の感想と考察。

 番組では、「相手の顔を識別する行動」に続いて、山本直之教授(名古屋大学)の研究が紹介された。これまでに50種類以上の魚の脳の構造と働きについて検討したところ、魚の大脳には人と同じような機能があり、従来知られてきた嗅覚に加えて、視覚や聴覚を統合処理している可能性が出てきた。山本先生は「魚は下等だと思っている人が多いかもしれませんが、われわれヒトと同じ脊椎動物の仲間で脳では、同じ脳の部位がすべてそろっています。ですから、魚も高い能力をもっていると考えてよいと思われます。」【←長谷川により一部改変あり】と説明された。山本先生は、さらに、
【魚には】感情のようなものがあると考えて良いんじゃないかと思っています。例えば、敵だと分かると怖いという感情が生まれて逃げるとか、エサであれば食べたいという気持ちになって実際に食べることが起こるとみられます。
と言っておられたが【長谷川による改変あり】、この部分については若干疑義がある。もちろん、魚にも何らかの情動的な反射はあるとは思うが、それが行動の原因になっているのかどうかはなんとも言えない。「怖いという感情が原因となって逃げる。食べたいという気持ちが原因となって実際に食べる」のではなく、全く別の原因によって、逃げるとか食べるといった行動が生じ、かつそれらの行動に付帯して、「怖い」とか「食べたい」といった情動的な反射が生じているのかは、さらに精査する必要がある【仮に、情動的な反射のほうが行動より先に起こったとしてもそれだけでは因果関係の証明にはならない。情動反射と行動の共通原因が別にあるかもしれないからだ。例えば、火が燃える時に、先に煙、後から炎が出るが、だからといって炎の原因が煙であるとは言えない】。




 続いて、幸田正典先生による、ホンソメワケベラの鏡像認知の研究が紹介された。幸田先生は、
鏡像認知とは、鏡に映っている姿が自分だと認識できる能力です。ふつうは鏡を見せられると、ほとんどの動物はまずは同種の他の個体だとみなします。しかし、しばらくすると「オレかっ」とわかる。その「オレかっ」というのは、客観的にその姿を認識する、あるいは自己意識ですね、自分というのが分かっていないとできないすごく高度な能力なんです。
と説明された【長谷川により一部改変、省略あり】。番組によると、鏡に映る自分の姿を認識できる能力は、人間を含め、チンパンジー、イルカ、ゾウ、カササギなどにあることが知られているという。

 今回紹介されたホンソメワケベラは、太平洋やインド洋などの熱帯、亜熱帯の海に棲む体長10cmくらいの魚。大きな魚の体の表面などについた寄生虫を食べて掃除をする習性で知られている。

 番組ではまず、水槽の側面のカーテンが上がって鏡が出現すると、ホンソメワケベラは鏡に映った姿をライバルだと勘違いして攻撃するが、20分ほど経過すると、鏡に映る姿を覗き込んだり、鏡に映った姿が自分と同じ動きをしていることを確かめる行動が生じるようになる。この「攻撃→確認」という一連のプロセスは、チンパンジーなど他の動物の鏡像認知実験でも見られる典型的な行動であるという。

 幸田先生の実験に入る前、ここまでのところで私なりの考えを述べさせていただく。まず、初めて鏡を見せられた動物が、当初は攻撃(もしくは逃避)行動をとるというところまでは納得できる。しかし、その後に生じる行動が、鏡に映った姿が自分と同じ動きをしていることを確かめる行動であるかどうかについては、慎重な言葉選びが必要ではないかと思う。
 このWeb日記、特に関係フレーム理論関連の記事で繰り返し述べてきたが、そもそも言語や 視点取得なしに「自分と同じかどうか?」を確認することができるのかどうかは、まことに疑わしいように思う。おそらく、言語を持たない動物たちにとっては、この世界は自己も他者もないただ1つの世界に見えているはずだ。但し、
  1. その世界の中には、みずからの行動で変化する部分と、行動しても全く変化しない部分がある。前者に相当するのは、手足や発声器官、顎などである。
  2. その世界の中には、痛みや痒み、熱い、冷たいといった感覚に対応する部分と、何の感覚も伝わらない部分がある。
というように、何らかの境界のようなものがある。それゆえ、言語行動的な意味での自己概念を持たない動物でも、「自分が関わる世界」と「自分が関わらない世界」を区別することはできるはずだ【「自分が関わらない」というのは、自分で動かせない、感じることがない、というような意味であって、関わらないといっても、天敵や獲物のように自分に影響を与える存在は後者に含まれている】。

 この「自分が関わる世界」としては、駐車場で、バックしながら、車を駐車スペースに入れる場合を考えてみるとよいだろう。車自体は自分の体の一部ではないが、ハンドル操作やアクセルの踏み具合【マニュアル車であればさらに半クラッチの頃合い】などに連動して、正しく車庫入れすることができる。
 もっとも、車庫入れに失敗して、隣の車を擦ったり、後ろの壁に激突しても、痛みを感じることはない。これは、車の運転操作が上掲の1.を満たしているものの、上掲2.のような体性感覚との連動を一度も体験していないからである。もし、車の側面を擦るたびに脇腹、車の後ろを何かにぶつけるために背中に、それぞれ確実に一対一対応になるような痛みを与える訓練をしていたら、おそらく、運転している車は自分の体の一部であると錯覚するようになるであろう。

 なお、これに関連して、4月15日の日記で、小鷹研理先生(名古屋市立大)の指導による「幽体離脱を疑似体験できる実験」を取り上げたことがあった。台の上の見えている所にゴムの手、自分が見えない台の下に自分の手を置いて、ゴムの手と自分の手の同じ場所に同時に刺激を加えると、脳は、ゴムの手を自分の手であると錯覚し、かつ、自分の手がゴムのような弾力性を持つと感じてしまうという。この場合は、ゴムの手が自分の一部になったのであるが、だからといってその説明に言語行動的な意味での「自己概念」は必ずしも必要ではない。

 次回に続く。