じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 10月30日朝の時点で、NHKオンラインのアクセスランキングの第1位に「俳優 伊藤健太郎容疑者を逮捕 ひき逃げなどの疑い 警視庁」【10月29日16時40分配信】、第2位に「俳優の伊藤健太郎さん 乗用車でバイクと衝突事故 2人けが」【10月29日10時00分配信】というニュースが挙がっていた。興味深いのは、第1位では「○○容疑者」、第2位では「○○さん」というように呼び方が変わっていることである。
 確かに、事故が起こった時点では「当事者=容疑者」ではないので「さん」をつけて呼ぶべきであり【但し、すでに容疑者になっている人が逃走中に事故を起こした場合を除く】、その当事者が何らかの違法行為の疑いで逮捕された場合は「容疑者」をつけて呼ぶのが妥当であり、なるほどと思った。

2020年10月29日(木)



【連載】「刺激、操作、機能、条件、要因、文脈」をどう区別するか?(34)1991年のHayes論文(5)Why do we replicate research?

 昨日に続いて、

Hayes, S. C. (1991). The limits of technological talk. Journal of Applied Behavior Analysis, 24, 417-420.

についての考察。少々脇道に逸れてしまったので、元の論文の内容に話題を戻す。論文の中程では、「正確さ (precision)」や「広がり (scope)」について詳しく論じられている。

 まず、「広がり」が拡大していても「正確さ」に乏しい言説は役に立たないとして、「The world is the plaything of the Great Spirit」の例が挙げられている。そのいっぽう、「正確さ」だけを重視すると、科学を役立てようとする人々(消費者)を制限してしまうことになる。

 そもそも、科学的な知識というのは、新たな問題や状況に直面した時に有用性が発揮されるものであるが、これらは「広がり」がなければ応用することができない。

 さて、このことに関連して、昨日まで取り上げてきた内的妥当性と外的妥当性の話が出てくる。原文では、
Behavior analysts have paid an enormous amount of attention to internal validity―ways to ensure that scientific statements are based upon the data. But the consumption of scientific research is a matter of external validity. The external validity of research does not flow logically from internal validity (despite the arguments of textbooks to the contrary: see Hayes, 1988, for a discussion).【419頁】
として、Hayes自身が、「internal validity」、「external validity」という言葉を使っていることが分かる。続く段落には、特に注目すべき記述がある。
I often ask my students a key question the late Aaron Brownstein taught me to view in a different way: Why do we replicate research? Students almost invariably answer that the purpose is to see whether the same result will occur if we did the same thing. This is clearly false. We are not testing the consistency of the universe when we replicate research. If we did exactly the same thing in every detail, the same results would occur. Rather, our purpose is to see whether doing what the author said is doing the same thing. We are testing the functional adequacy of the researcher's verbalizations in guiding our behavior.
 文中の故Aaron Brownsteinは関係フレーム理論構築の影の立役者であり、このWeb日記でも何度か言及させていただいたことがあった。それはそれとして、「Why do we replicate research?」という問いにどう答えるかは重要であろう。「We are not testing the consistency of the universe when we replicate research.」という立場は、まさに、機械主義ではなく、機能的文脈主義の「プラグマティズムに基づく真理基準」を表明しているとも言える。昨日も述べたが、「We are testing the functional adequacy of the researcher's verbalizations in guiding our behavior.」というところが機能的文脈主義の立場からの回答になっているのである。例えば、行動原理に基づく言説というのは、機能的妥当性や外的妥当性を確保するための努力ということになる。応用研究というのはある程度、新たな問題への応用可能性を含んでいるのである。

 不定期ながら次回に続く。