じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 新型コロナウイルス感染防止のため休校となっていた岡山市内の公立学校が、5月21日より段階的に再開され、岡大に隣接する岡北中でも、生徒たちがグラウンドで体育活動をしていた。こちらによれば、
  • 令和2年5月21日(木曜日), 22日(金曜日) 午前中のみ授業,給食なし   
  • 令和2年5月25日(月曜日)〜27日(水曜日) 午前中授業,給食後下校   
  • 令和2年5月28日(木曜日)            通常の教育活動再開
 なお、こちらによれば、岡大でも5月22日から一般教育棟の一部や図書館えの立ち入りが認められ、また生協食堂なども特別営業を再開することとなった。

2020年5月22日(金)



【小さな話題】映画「今夜、ロマンス劇場で」はどこがハッピーエンドなのか?

 昨日に続いて、表記の映画(2018年2月公開)の感想。

↓↓↓↓↓以下、ネタバレ満載↓↓↓↓↓





 昨日の日記で、ネット上で、牧野はいつ死んだのか、翌朝にそれが発見されたとしたら看護師さんはもっと驚くはずではないかというような疑問の声が出ており、私も、翌朝の看護師さん(吉川天音)の態度はちょっと不自然であったように思う、と述べた。病室の患者の呼吸器が外れていて息をしていないように見えた時は、看護師さんはまずは患者の容態を確認し、緊急連絡をする、というのが常識的な展開であろう。しかし映画では、
  • 翌朝、看護師が牧野の病室に入る。牧野は呼吸マスクを外した状態で寝ており、呼吸が止まっているように見える。
  • 看護師は、ゆっくり牧野のほうに近づき、立ち止まって牧野の顔を見つめる。その表情は微笑んでいるようにも見える。
  • 看護師は、ベッドの足もとのほうを回って、窓際の机に置かれた原稿に向かう。
  • 看護師は、手に取った原稿をめくる。そこには、ラストの「古城・広間(白黒映像)」のシーンが記されていた。
となっており、看護師の対応としては不自然であるように見えた。この部分は、「牧野が霊安室に運ばれたあと、看護師が病室の後片付けをしていて、脚本の結末部分が書かれた原稿を見つけた」としたほうが自然ではないか?と述べたところであった。

 しかし、もう少し深く考えてみるに、看護師は、牧野が書いた原稿のうち、ラストの「古城・広間(白黒映像)」の直前までの展開をすでに読んでおり、毎日面会にやってくる女性が孫ではなくて美雪自身であることも知っていて、牧野が危篤になった時にもそれを知った上で美雪に連絡し、そのあとの病室での出来事を見守っていた、というようにも解釈することができる。牧野が脚本原稿の通りに亡くなったと知っていたならば、翌朝に病室に入っても驚くはずはない。「おじいちゃん、美雪さんに看取られて良かったね」というような微笑みを見せるのが最も自然と言える。
追記]ネット経由で得た情報だが、翌朝の病室の椅子の上には紺色のショールが置きっぱなしになっていた。このショールは美雪が病院に駆けつける時に羽織っていたものであるが、看護師はこのことにも気を止めていない。やはり、病室に入る前から、美雪が室内で消えていったことを知っていたのであろう。




 さて、この映画は、現実の世界で息を引き取った牧野が、美雪の元の世界であるモノクロの古城の広間に入っていき、美雪に赤いバラの花を渡し、初めて「ぬくもりに触れて」ハッピーエンドという結末になっているが、私のようなあと何年生きられるか分からない高齢者から見ると、2人にとっての本当のハッピーな期間というのはもっと前、つまり、いま流の表現で言えば「社会的距離」を保ちながら何十年にもわたって「結婚生活」を続けることができたことこそがハッピーなのであって、それにすぐる幸せはどこにもないように思われる。

 この映画では、美雪の「見つけてくれてありがとう」というセリフが2回出てくる。1回目は、雨の中ホタルが飛び交う場面、2回目は牧野の臨終間際の場面である。同じ「ありがとう」というセリフではあるが、1回目は出会いのお礼、2回目は長年にわたって連れ添って生活してくれたことへの感謝の意味が込められている。映画の中では回想シーンとして描かれているが、まさにこの「見つけてくれてありがとう」の1回目から2回目までが2人にとってのハッピーな期間なのであって、それを超えるハッピーはあり得ない。

 ラストの「古城・広間(白黒映像)」は、多くの観客に感動を与える結末であり、白黒からカラーに切り替わるという最大限の色彩効果をもたらすものであるが、仮にあのシーンがカットされて、代わりに牧野の臨終場面が結末になったとしても、ハッピーエンドの質はちっとも変わらない。というか、仮に牧野が死後に古城に移り住んで美雪姫と「末永く幸せに暮らしました」となったとしても、それは牧野の「第二の人生」というか、生まれ変わった別人の牧野の幸せなのであって、その有無によって、現実世界での牧野の人生の価値が変わることはない。現実世界の人間はいつかは死ぬものであり、2回目の「ありがとう」をもって牧野の人生は完結したのである

 そういう意味では、牧野が書き遺した結末というのはあくまで、牧野の描いた夢の世界、「幸せな結末がいいなあ」という美雪の要望を取り入れた牧野の創作であったと考えるべきであろう。もちろん映画なので、創作かどうかと言えば作品全体が創作であるのだが、その中でも「現実を描いた創作」と、「作中人物が創り上げた創作」は区別する必要がある。映画の世界から美雪が飛び出してきたというのはこの作品で描かれている現実、いっぽう、古城・広間の結末は作品の中で入れ子に入った創作になるということだ。

 一般的に、ファンタジー(←この映画がファンタジーかどうかは別)というのは、現実にはあり得ない奇跡や別世界が広がるという面白味があるいっぽう、それが奇想天外であればあるほど現実から遊離してしまう。この映画も、牧野が美雪に出会い、連れ添い、臨終を迎えるまでのすべてを牧野自身の創作であったと解釈すれば、非常に現実的なものとなる。つまり、ある青年がバーチャルな世界の女性に恋をし、バーチャルなままに仮想の結婚生活を送り看取られたという物語であると解釈することもできないわけではない。じっさい、AIやCG技術が進歩した現在では、バーチャルな結婚相手を創りだし、日々、楽しい会話を交わし、最期は看取ってもらうということも可能になってきているようだ(←バーチャルな第2の自分を創ることもできるらしい)。バーチャルであれば夫婦げんかもないし、相手のために炊事、洗濯、掃除などをする手間も省けるのだが、もし多くの若者が、現実の人間ではなくバーチャルな相手との交流を望むようになると、濃厚接触を伴う結婚が行われず、子孫が生まれずに人類が滅亡してしまうという恐れもある。ま、そこまで極端な変化は起こらないとは思うが。