じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 5月8日の夕刻、南東の空から赤い月が出る瞬間を眺めることができた。この時の月齢は15.3で、満月の翌日。

2020年5月09日(土)



【小さな話題】 盲亀浮木〜人生に起こる小さな奇跡〜

 5月4日、自宅でテレビを見ながら昼食をとっていたところ、NHKニュース終了後に突然、

盲亀浮木〜人生に起こる小さな奇跡〜

というドラマが始まった。この時間、いつもは「昼サテ」に切り替えるところだが、この日は祝日で放送が無かったため、そのまま見続けることにした。なおこのドラマは、今年の3月26日と4月4日にも放送されていたようである。

--------------------------------【以下、ネタバレあり】-----------------------


 ドラマでは、まず30歳代(←あくまで私の見た目)の男性が自分で車を運転し、海岸沿いにあるコテージ(たぶんレンタル)のようなところに到着するシーンから始まる。その男性は作家であり、このコテージで構想を練っているのだがなかなか筆が進まない。クマという名前の黒い犬を飼っており、犬を連れて海岸を散歩する。コテージの近くには廃墟となったリゾートホテル、さらにその近くには、閑散期だが営業中と思われるリゾート施設があり、従業員の男性が幼児向けプールの整備をしている。ドラマの中の会話は、唯一、この男性と交わされる短いものに限られていた。

 でもって、ある日、といっても、コテージに到着して間もない日、クマが突然姿を消す。男性は周辺を探すが見つからない。結局、数日後、プールの従業員の男性に犬のことを託して、自宅に戻るために車を運転する。その途中、信号待ちで停車中、全く偶然に、クマを発見。男性はクマを抱きかかえて車に戻る。男性は運転席で泣きじゃくるが、クマ自身はそれほど喜んでいないように見える。日本語で、
「クマは喜んだでしょう」
この話をすると、よくひとにそう云われるが、
クマは私が予期したほどに喜んだ様子をしなかった。
クマも疲れ切っていたからかもしれない。
という志賀直哉の原作の一節が流れた【ルビ等一部省略】。

 その後、突然場面が切り替わり、小学校低学年と思われる子どもたちが中型バス4台でプール【男性が従業員と会話を交わしていたのと同じ施設】に到着し、水浴びを楽しむシーンとなり、そのままドラマは終了となった。なお、録画再生(但し、録画したのは後半15分のみ)で初めて気づいたのだが、この中型バスは、男性が信号待ちで停車中に、交差点を右折してきたバスと同一であった。

 このほか、男性が踏切の脇にある白い椅子(廃墟化したホテルの海岸にあるのと同じ椅子)に座るシーンがあったが、踏切が特別の場所なのかどうか、あるいはクマと最初に出会った場所なのか?は分からないままであった。

 ということで、私のような鑑賞力の無い者にとっては、殆ど理解不能の展開であった。番組案内のところに
大洋を漂う浮木を求めて、百年目に海底から首を出した盲目の亀が、たまたま木に一つしか開いていない穴から首を出したという「盲亀浮木」の寓話になぞらえて、...
とあったので、ひょっとして、クマを探して海岸を歩いていたら大きな亀が出てきて竜宮城へご案内というような展開になるのかと期待していたのだが、よく考えたら、志賀直哉がそういう荒唐無稽の話を書くわけがない。あくまで日常で起こった偶然に意味づけをするような話であるということが分かった。

 ネットで盲亀浮木(もうきふぼく)を検索すると、もともとは、「滅多にない」という意味であり、仏教ではよく知られた言葉であるらしい。志賀直哉の作品は殆ど読んでいないので何とも言えないが、
ただ偶然というだけではない。きっと何かの力が働いたのかもしれない。ただ、それが何だったのだろうか、と思うだけでそれ以上はもう考えられない。
という捉え方をするような作品があったように記憶している。有名な『小僧の神様』も1つの偶然から生じた展開であった。

 いずれにせよ、今回のドラマは、きわめて難解であったが、その謎解きのためにいろいろな方のブログを拝見したという点で、1つの偶然(=昼食時、ニュースのあとにたまたまドラマが始まった)をきっかけとして多様な価値観に触れることができたと意義づけできるのかもしれない。

 なお、私自身は、「因果性」ではなく、行動分析学の基本概念である「随伴性」概念を柱とした生き方をしているため、さまざまな偶発的出来事それ自体に意味づけをしようとは思っていない。それらはあくまで「結果として起こったこと」に過ぎず、結果として起こらなかった時にはそれなりに別の道が広がるだけのことだ。あることが起こるか起こらないかの2通りであり、その先に別のことが起こるか起こらないかの2通りがあるというように分岐を考えていくと、2、4、8、16、32、64、128、256、512、1024、...というように無数の展開がありうる。いまある自分は、そうした結果のうちの1つ、例えば1024通りの自分のうちの1つに過ぎず、そのうちの1022番目の結果であるか1023番目の結果であるかということには特別の意味はない。かつてレイノルズ(1978、浅野訳)は、訳者後書きのところで浅野先生にあてて、依存性(dependency)と随伴性(contingency)の違いを以下のように説明しておられた。
今,道路上を走っている車の列に向って,10秒に1発ずつライフル銃を発射したとしましょう。さて,この場合,依存性のある事象は何でしょうか。引き金を引くと弾が出ることと,厳密に言えば問題があるかもしれませんが,いずれどれかの車に弾が当たる(但し,交通量が十分に多い場合に限られるでしょうが)ことぐらいでしょう。あとのことは,全て随伴性,すなわち,偶然ではあるが現実の出来事です。弾が当たった車が大型であったか小型であったか,10人乗っていたか二人乗っていたか,前後の車との間隔が距離にして2フィートであったか,10フィートであったか,時間にして3秒であったか,4秒であったか,等々は皆,偶然の出来事です。
ここでいう依存性は因果性に置き換えてもよいと思うが、要するに、現実に起こる出来事、あるいは、わたしやあなたといった存在は、偶然性の結果であって、それ以上でもそれ以下でもない。いま問題となっている新型コロナウイルス感染の場合も、感染防止対策はあくまで因果的な感染リスクの確率を下げる対策となっているが、それでもなお感染したり感染しなかったりするのは随伴性の結果であるとしか言いようがない。

 もとの話題に戻るが、志賀直哉の原作に関連して、(志賀直哉が飼っていた)クマが居なくなってから見つかるまでは一週間、これを分母として、またバスに乗っていてクマをみつけるのにかかった時間を3秒と仮定すると、クマが見つかる確率は20万6600分の1の確率で生じる奇蹟であるという記事を見かけたことがあったが、この確率計算はちょっとおかしい。(志賀直哉の)クマが、行方不明になったあと特定の場所に住み着いていたとするなら、志賀直哉自身がそこを通ればほぼ確実にクマに出会えるはずだ(特定の時間帯とは限らない)。この場合、クマに再会できる確率は、志賀直哉自身がその場所を通過する確率(毎日なのか1年に1回なのか)によって決まってくる。もう1つ、我々は、日常のさまざまな出来事の中で、自分にとって重要な出来事、感動的な出来事、あるいは不幸な出来事というように、特定の事象だけに絞ってそれが起こる確率を個々に計算しようとしがちであるが、巨視的に見れば、それらは「いつか起こること」であってそれほど不思議ではない。「いつか起こること」なのに、「なぜ特定の日時に起こったのか」に取り違えてしまうと、何でもかんでも奇蹟の連続であるかのように勘違いしてしまうのである。ま、そういう形で、すべての事象に宗教的な意味を持たせて生きていく人がいても、日常に支障が無ければそれはどれでよかろう。いっぽう、私自身が随伴性的人生観の道を選ぶのもこれまた自由。