じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



01月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 昨日の日記で鍾乳洞の話題を取り上げたが、中学生の頃は私は鍾乳洞の大ファンであり、中学2年の時の文集でも鍾乳洞への思いを綴っていた。
 なおこの作文のタイトルや本文では「鍾乳洞」の「鍾」の字が「鐘」となっていた。ウィキペディアにも記されているように、鍾乳洞の鍾は金偏に「重」であり、金偏に「童」の鐘と書くのは誤りとされているが、当時は、各種観光地の案内板でも「鐘」の字が使われていることが多かったように思う。最近はワープロ等で正しく漢字変換されるため「鐘」と表記する間違いは減っているようだ。手書きでは「鐘」と書く人のほうが多いとは思われる。【岡山にある「備中鐘乳穴(びっちゅうかなちあな)」は固有名詞なので「鐘」のままが正しいと思われる。】

2020年1月28日(火)


【連載】関係反応と #関係フレーム をどう説明するか(56)恣意的に適用された #派生的関係反応(その1)

 すっかり間が空いてしまったが昨年12月23日の続き。今回は連載の流れから少し戻るが、「恣意的」、「非恣意的」ということについて再度確認しておきたいと思う。

 昨年刊行された、

Stewart, I. (2018). Derived relational responding and relational frame theory: A fruitful behavior analytic paradigm for the investigation of human language. Behavior Analysis: Research and Practice, 18(4), 398-415.

の中に以下のような記述があった。
As an example of AARR, imagine that I teach a verbally able child that "Alex is faster than Bob and Bob is faster than Charlie" and imagine that the child is then able to derive multiple new relations including, for instance, "Alex is faster than Charlie" and "Charlie is slower than Alex." The child can do this even though the latter performances have not been explicitly taught and the nonarbitrary properties of the stimuli involved do not support these performances (i.e., it is not obvious that the stimulus "Alex" is physically faster than the stimulus "Charlie").
AARR の一例として、言葉が使える子どもに「アレックスはボブより速い」と「ボブはチャーリーより速い」を教えたとしよう。そうすると、その子どもは「アレックスはチャーリーより速い」とか「チャーリーはアレックスよりも遅い」というように多角的な関係反応を派生することができるだろう。その子どもは、明示的な訓練を受けなくても後者の関係反応を示すことができたし、また、この関係反応を起こりやすくするような非恣意的な特徴は登場人物の名前には含まれていなかった (つまり、アレックスという文字列がチャーリーという文字列より物理的に速いかどうかは分からない).
 ここで、アレックス、ボブ、チャーリーに相当する人物自体をそれぞれA、B、Cとしよう。ちなみに、A、B、Cというのは、人物そのもののことであって、名前ではない。我々は、ホンモノが目の前に無い限りは、何かの記号を対応づけなければ、それらの事象について語ることができないのである。

 さて上記の例では、2種類のタイプの関係づけが想定されている。
 1つは、ホンモノのA、B、Cに対してアレックス、ボブ、チャーリーという名前を対応づけていることでこれは等位フレームとも言える。この関係は上記の引用にもあるように恣意的に適用されたものである。
 もう1つは、「AはBより速い」、「BはCより速い」という比較関係である。この速さの違い自体は非恣意的なものである。例えばAがサニブラウンでBが筆者(ハセガワ)でCが5歳児であったとすると、AとBの速さの関係を取り替えることはできない。またサニブラウンと5歳児がかけっこをすれば、サニブラウンが手加減(足加減?)をしない限りは、速く走ることを観察で確認することができる。
 要するに、恣意的に適用されているというのは、A、B、Cという人物に、アレックス、ボブ、チャーリーという名前を対応づけている部分だけであって、比較関係は非恣意的ということになる。

 しかしながら、上記の例では、子どもは、アレックス、ボブ、チャーリーが競走をしている場面は一度も見ていないようである。となると、A、B、C自体の走力が非恣意的であったとしても、アレックス、ボブ、チャーリーという名前を対応づける部分が恣意的であることによって、結果的に、「お話の世界」の中では比較関係までもが恣意的になってしまう。

 サニブラウンとハセガワも同様。こどもに「ハセガワはサニブラウンより速い」と教えるのと同時に、サニブラウンがハセガワを、ハセガワがサニブラウンを名乗ることにすれば、実際に競走した結果との矛盾は生じない。

 以上から示唆されるように、ある事象間を物理的、化学的に観察することで確認された関係はそれ自体は非恣意的であり、好き勝手に取り替えることはできない。しかし、恣意的に適用された派生的関係反応(AARR)という時の「恣意的」というのは、派生的関係反応を発する人自身がどこまでその対象を観察できる状況にあるのかによって決まる。例えば、

●東京タワーよりスカイツリーのほうが高い。スカイツリーより富士山のほうが高い。

というのは、実際にこれらを目で見たり登ったりして比較できる人にとっては非恣意的な関係である。いっぽう、実物を見たことがなく、高さの情報を知らされていない人にとっては恣意的な関係と同じ扱いになる。上記の話(●)を聞いただけの人が「東京タワーより富士山のほうが高い」と判断するのはAARRであると言ってよいだろう。

 不定期ながら次回に続く。