じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 11月7日の昼前、岡大構内各所で「集会」が行われていた。どうやら、恒例の防災訓練が行われたらしく、白ヘルをかぶった人もチラホラ見えていた。以前にも書いたことがあるが、私の世代では、白ヘルは過激派の集会を連想してしまう。なお、自転車で通過した限りでは、工学部と教育学部前の「集会」が人数が多かったように見えた。

2019年11月7日(木)



【連載】『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』(3)指さしと同時提示

 11月5日の続き。

 針生先生の『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』第1章の34ページのところには、
 また、言語をまだ一つも知らないということは、言語とは何なのかについて知らもないということかもしれません。たとえば、モノの名前を誰か教えるためには「そのモノを指さして名前を言えばよい」と、たいていの大人は考えています。つまり、「誰かが何かを指さして声を出したら、その声は、指の先のモノのことを言っていると考えるのが当然だ」と思っているのです。
 ただし、この方法がうまくいくためには、教えられる側も、話し手の声を、話し手が示すモノと関連づけるつもりでなければいなりません。また、モノに名前があることも理解していなければなりません。
と記されていた。この部分の記述は、指さしの機能のほか、言語とは何かについて重要な示唆を含んでおり、かつ、認知的アプローチと行動分析学的アプローチの違いを浮き立たせているようにも見える。

 まず、指さしであるが、指さしによって言葉を覚えるという方法は、言語学習のごく一部であり、しかもある程度あとになってから訓練が可能になるのではないかと思われる。なぜなら、言語学習まず、指さしではなくて、現物と名前(音声)の同時提示から始まる。例えば、リンゴやバナナという名前は、本人あるいは親がそれらの果物を手に取って、「リンゴ」、「バナナ」という音声と同時提示されることで学習される。要するに、「いま、ここ」にある事物から、名前と事物との一対一対応の言語学習が始まるのである。指さしというのは、手にとることのできない「いま、あそこ」にある対象に対して行われる高度な段階ではないだろうか。

 ちなみに、ある事物と、もともと中性的であった刺激を同時提示するというのは、パブロフのイヌで知られるレスポンデント条件づけの基本手続である。例えば、特定のテンポのメトロノームの音と餌を何度も同時提示されたイヌは、その音だけが聞こえた時にもヨダレを流すようになる(=条件反射)。条件反射は、人間以外の動物でも広く確認されているが、餌の名前=「特定のテンポの音」という言語学習であると解釈されることはない[]。しかし「同時提示」という手続自体は変わらないし、生物進化的にみて、関連づけ学習の土台になっていることは間違い無い。
]数日前のカラパイアで「散歩に行きたい?」と聞いた時の犬の反応がドラマチックすぎたという話題が取り上げられていたが、これも単なる条件反射であって、言葉を学習したとは見なせない。

 この「同時提示」という方法は、言葉が全く通じない外国人、あるいは宇宙人とコミュニケーションをとる場合にもおそらく有効であろう。まずは、身の回りにあるモノを手に取って、同時に音声を発する。これを繰り返せば、相手は、その音声がそのモノに対応していることを学習する。

 いっぽう、指さしというのは、「いま、ここ」ではなく「いま、あそこ」にあるもの、あるいは、複数のモノが並んでいる時に、その中の1つを特定するような場合の弁別刺激、あるいは特定の文脈の手がかりとして機能している。上記の「同時提示」は「モノと音声」の関連づけだけで済むが、指さしを必要とする場合は、まず「指さしの方向」と「特定のモノ」との関連付けがなされなければならない。人間以外の動物ではこれはかなり困難と思われる。もちろんよく訓練されたイヌであれば、指をさした方向にあるボールをくわえて運んでくることはできるだろうが、せいぜい大ざっぱな方向の手がかりになっているだけで、ボールそのものに関連づけられているかどうかは定かではない。

 引用文の最後のところ「モノに名前があることも理解」というのは、あくまで認知心理学的な表現である。行動分析学的アプローチはそのようには考えていない。代わりにどう表現すればよいか? 行動分析学に関心のある方は、ぜひ御自身で考えてみてほしい。

 次回に続く。