じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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終末期における「随伴性」の想像図。クリックすると変化の様子が分かります。↓の記事参照。

2019年10月17日(木)



【小さな話題】
終末期の心と行動(2)

 昨日の続き。高齢になるにつれて、
  1. 「いま、ここ」でできる行動が限られてくる。
  2. 人によっては、過去の出来事の回想にふけるようになる。
  3. 人によっては、将来の生活を案じるようになる。
  4. 人によっては、癌などの宣告により残りの人生が限られていることを悟る。
  5. 人によっては、記憶障害がすすむ。
といったいろいろな事態に遭遇する。しかし、これらは、人それぞれの事情によるので、個別に対処していくほかはない。

 一般的に言えることとしては、まずSOC「(補償を伴う選択的最適化、Selective Optimization with Compensation)」という考え方がある。近年、センサーやロボット技術、またバーチャルな映像提供技術などの進歩はめざましく、寝たきりの状態になっても、かなりの程度で「能動的な行動→強化」という機会を保障することができるようになってきた。

 次に、自分あるいは家族が癌宣告を受けた時はどうすればいいか。2年ほど前の行動分析学会年次大会で述べたことを再掲すると以下のようになる。
  • 病気による苦痛を避けようとしたり死を恐れたりすることは、進化論的にみて適応的な反応である。
  • 人間の場合、他者の死を経験したり、自身の怪我や病気からのアナロジーとして、「概念化された死」を恐れるようになることがある。その恐怖が「いま、ここ」の生活に弊害をもたらす可能性がある。
    ...恐怖を抱かせているのは死そのものではなく、死について語ったり考えたりする行為なのです。【Skinner & Vaughan (1983)、大江聡子訳】
  • ハリス(2012) ACTの考え方
    • 物質の世界ではある程度コントロールできるが、思考や感情、感覚、記憶などをコントロールするのは簡単ではない。感情をコントロールすべきだという考えは、特に学校生活で強められる。意志によって感情をスイッチのごとくオン・オフできるという神話が隠されている。
    • 不快な思考を取り除こうともがくのではなく、そのあるがままの姿―単なる言葉の羅列であることに気づき、それと格闘するのを止める。脱フュージョンの目的は思考を取り除くことではなく、それを単なる言葉の羅列として、あるがままに見ることであり、それに抵抗することなくあるがままにしておくことである。気分のコントロールに使ってはいけない。
  • 但し、派生する感情反応をすべて言葉の羅列として切り離してしまうべきであるとは思わない。人間生活において喜怒哀楽は適応的な部分もあり、望ましい出来事は大いに喜び、愛する人が死んだ時には大いに悲しみ、不正に対しては大いに怒ることにもそれぞれ意義がある。
ということで、癌宣告を受けた時には悲しむのは当然。スタートレック(宇宙大作戦)のミスタースポックのように、何が起こっても動揺せず平然とやり過ごすというのは、人間の本来の姿ではないように思う。
 終末にさらに近づいてくると、おそらく、「いま、ここ」、「過去」、「将来」の図式は次第にバラバラとなって、上掲の一番下の図(サムネイルの図と同一)のように変化していくと思われる。要するに言語反応による関係づけが錯乱状態となりしだいに希薄化していく。これが果たして泥沼でもがくような状態なのか、それともカオスの中の恍惚状態なのかは、その時になってみないと判らない。

 では、どうすれば「泥沼」ではなく「恍惚状態」を保てるのか? ひとつの手立ては、やり残したことを後悔せず(←やり残さないに越したことは無いが)、生きることに執着せず、「もういいよ」、「これでよい」といった充足感に浸ることであろう。私は子どもの頃から一貫して無宗教であるが、方便や現世利益といった非科学的で胡散臭い部分を取り去った上の、本質的な部分には耳を傾けるべき教えが含まれているとは思っている。とはいえ、終末期は人生のほんの一部に過ぎない。そのほんの一部のために若い頃から宗教活動に身を投じたり、修行の日々を送るよりは、健康の時にできることを精一杯やったほうが良いようには思う。

 人生最後の日は最高の一日であるべきか、それとも、人生最後の日というのは、閉店セールが終わって店の中が空っぽになったような静穏な状態(もしくはこんな状態)でよいと見なすか。このあたりはさらに考えてみる必要がありそう。