じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2019年08月のウォーキング総括。2019年08月は、総歩数18万4357歩、1日あたり5947歩で、先月7月の113612歩、先々月7月の9852歩を大きく下回った。
 6月と7月は海外トレッキングで相当の歩数を確保したのに対して、8月は暑熱馴化目的で炎天下に半田山植物園を歩いた程度となった。また8月15日は台風通過の影響で1日中外出困難であり、歩数計をつけなかったので歩数ゼロが記録された。
 グラフはいつもの通り、毎日の歩数を少ない順に左から並べたもの。左端の落ち込みは、その月に何らかの事情で歩数が少なかった日があることを示す。右端はその月に最も多く歩いた日の歩数。グラフが水平であればあるほど、日々の歩数がほぼ安定していたことを意味する。

2019年9月1日(日)



【連載】

又吉直樹のヘウレーカ!「独り言をつぶやくのはなぜ?」と言語行動論(5)「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」

 昨日に続いて、又吉直樹のヘウレーカ! 「独り言をつぶやくのはなぜ?」についての感想、コメント。

 番組の最後のところでは、独り言とコミュニケーションで使う言葉の違いに関連して話題が取り上げられた。又吉さんのところに初対面の手紙が届いたという想定、中身は以下のような文面であった。
渋谷のハチ公前で10時に待っています。
大きい水玉のシャツを着ているのが私です。
すると、
  1. 水玉模様が大きく描かれたシャツを着た人
  2. 水玉が描かれた大きなシャツを着た人
  3. 水玉のシャツを着た大きなからだの人
という3人が出現。手紙を書いた人は自分の中のイメージで分かっているが、受け取った人はいろんな解釈ができる。

 これについては、
  • 言語はコミュニケーションに向いていない部分がある。(同じ言葉を聞いても同じモノを想像しない)。
  • (言語は)思考するには完全だが、コミュニケーションでは完全ではない。
  • 会話を通して、お互いの心の中にある(認知の)構造を予測しながら落としどころを探っていく。
  • 独りで頭の中で思考してつぶやくのが独り言、それを対話で共有していくのがコミュニケーション。
  • 独り言で思考し、人とコミュニケーションを重ねる、それを繰り返すことで言葉は生まれた。
 さらに岡ノ谷先生は、
  • 最近、独りでじっと考える時間が無くなってきている。スマホを使って過ごしているうちに、自分の中でくるくるまわっている思考の時間がスマホに取られてしまっている気がする。
  • 大昔、油や甘いモノはなかなか手に入らなかったので、あったら食べるべきだった。これが豊富な食べ物にあふれる現代、生活習慣病をもたらしている。
  • 同様に、人間が言葉を持ち始めた時代には、群れの中での噂の交換はとても大事であった。今は情報が大事であれば何でも入れるというクセがとれないまま、スマホなどの便利な道具ができてしまった。砂糖や油からなかなか離れられないのと同様に、その道具からなかなか離れられない。これが情報習慣病をもたらしている。
というように解説された【長谷川による聞き取り、要約のため不確か】。




 ここからは私の考えになるが、まず、「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」の解釈がマチマチになるのは、A「大きい」、B「水玉の」、C「シャツ」という語順にかかわる認知の構造が人それぞれで違っているからではなく、あくまで文脈の問題であろう。「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」という手紙が届いた時に、それを「水玉模様が大きく描かれたシャツを着た人」と解釈するのか「水玉のシャツを着た大きなからだの人」と解釈するのかは、認知構造なるもので固定されてしまうほどリジッドではない。これが公園のベンチでの会話場面であり、目の前に水玉模様のシャツを着た人が複数歩き回っている場面を想定すると、
  • もし、そこにいる人の背の高さがほとんど同じで、水玉の大きさだけが異なっているならば、聞き手は「水玉模様が大きく描かれたシャツを着た人」と解釈する
  • もし、どの人も同じ大きさの水玉模様のシャツを着ていたとすれば、聞き手は「水玉のシャツを着た大きなからだの人」と解釈する
であろう。要するに、聞き手の解釈を変えるのは、聞き手の頭の中にあるとされる認知構造ではなく、聞き手の外にある文脈の違いである。

 でもって、「(言語は)思考するには完全だが、コミュニケーションでは完全ではない。」という説明であるが、行動分析学やそれに依拠した関係フレーム理論は、そのようには考えていない。そうではなくて、もともと言語行動というのは文脈に依存する行動であり、思考する時に完全でコミュニケーションの時に不完全(=正確に伝わらない)であるように見えるのは、前者では暗黙のうちに文脈が固定されているのに対して、後者の会話場面では、話し手と聞き手の文脈がなかなか共有できないことにあるのだ。これは日本語と英語でも異なる。もともと、日本語は文脈がおおむね共有されたコミュニティの中で成立していったため、主語を必要としていない。文脈が完全に共有されている二者間では、動詞や形容詞一語だけで会話を重ねることができる。例えば、
  • あっ、歩いてきた。
  • 大きいねえ。
  • 長いねえ。
というのは主語が無いが、文法的には完全な日本語である。例えば動物園でゾウを見物している文脈であれば、これだけで充分。

 次の「独り言で思考し、人とコミュニケーションを重ねる、それを繰り返すことで言葉は生まれた。」についても若干異論がある。私は、あくまで、コミュニケーションの中で、マンドやタクトといった昨日を持つ発話が強化され、視点取得が形成されていくなかで思考が発達してきたと考える。

 最後の「情報習慣病」懸念は全くその通りだとは思う。また、最近では、文字入力の際に、よく使う言い回しの候補が表示されてしまい、ついついその表現候補を選択してしまうことがある。これによって、いつの間にか、自分の思考が誘導されてしまう恐れさえ出てくる。但し、「情報習慣病」で弊害とされる情報というのは言葉であるとは限らない。画像もあれば、メロディもある。また、言葉それ自体が溢れているというよりも、言葉と言葉との関係づけが大きな影響を及ぼしている可能性が高い。隠居人の立場からあえてご進言することが許されるならば、岡ノ谷先生にはぜひとも、関係フレーム理論に関心を持っていただき、機能的文脈主義との対話の道を開いていただきたいと思う。