じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 高知県内の旅行先はどこも快適であったが、唯一、最後に立ち寄った「ひろめ市場」は大混雑に加えて、テーブル各所からタバコの煙が立ち上り、孫たちに有害・有毒な煙を吸わせてしまい、私自身も呼吸困難となって、名物のカツオ料理を美味しくいただくことができなかった。敷地内全面禁煙を実施しない限りは、二度と訪れるつもりはない。
 それにしても、テーブルに灰皿が置いてあるというだけで、隣に乳幼児が座っていても平気でタバコに火をつける喫煙者はいったいどんな神経をしているのかと疑いたくなる。喫煙者であっても普通の日常生活場面では他者への配慮、思いやりを大切にしている人たちばかりかとは思うが、ニコチン依存はそうした人たち人間性を崩壊させ、灰皿さえあればタバコを吸うのは当然の権利であり周囲にどんなに迷惑をかけても構わないという加害者に変えてしまうのだから恐ろしいものだ。

2019年8月13日(火)



【連載】

又吉直樹のヘウレーカ!「ボクの時間を増やせませんか」(4)退屈な時と体験が多い時の時間の長さ/小学校時代の長さ

 昨日に続いて、8月7日放送の又吉直樹のヘウレーカ!「ボクの時間を増やせませんか」の感想・コメント。

 昨日も取り上げたが、作業に集中している場合と、退屈で時間の経過に注意を向けている場合では、後者のほうが時間を長く感じる。しかし、本を読む場合など、「読みながらいろんな体験をする(気がついたことをメモしたり、いいなと思った部分にフレーズに印を入れるなど)」をするとその分の時間は長く感じることになる。どうやら「時間を長く感じる」には、何もすることが無くてひたすら待つときに感じる長さと、いろんなことをしていて後から回想した時に感じる長さという2つのタイプがあるようだ。昨日も述べたように、前者は「その場で過ごしている時に長く感じる時間」であり、後者は「あとから回想した時に長いと評価される時間」であるように思われる。

 じっさい、直近の私自身のモンゴル旅行の体験でも、インチョン空港での乗り継ぎで往路は5時間、帰路は6時間待ち。また、国内線のウルギー空港では気象条件が悪くて3時間待たされたあげくに航空会社の用意したバスに詰め込まれて別の空港まで4時間かけて移動する羽目となった。これらの時間はその場に居た時には非常に長く感じられたが、旅行が終わって写真を整理する段になるとむしろほんの一瞬であり、そうした待ち時間よりも、フラワーハイキングなどで歩き回った数時間のほうがよっぽど長いように回想されるのである。

 上記に関連して、又吉さんが、小学校1年〜6年までの6年間は、25歳から31歳までの6年間に比べて遙かに長かったという話をしておられた。私も同感であり、以下の3区分は、ほぼ同じ時間の長さであるように感じられる。要するに、年をとるに連れて、物理的な年数に対する長さ感覚は半減していくということである。(3歳までは記憶が殆ど皆無なので評価対象から除外。)
  • 記憶の残る3歳から小学校時代の9年間
  • 中学、高校、大学、大学院、結婚までの18年間
  • 結婚から定年退職までの35年間
 なお、これらの長さの感じ方は、単に新奇な体験の回数に比例するというだけではない。幼い時のほうが記憶が消えにくいことも大きく関わっているように思われる。定年退職後に過去のアルバムのプリント写真をデジタル画像化していて驚いたのだが、小学校・中学校の頃の集合写真を見ると、クラスメートの姓名が次々と浮かんでくるのに対して、高校・大学時代のクラスメートや知人は半分くらいの名前はどうしても思い出せないのである。さらに、職場で毎年3月に撮影している教職員の集合写真などは、つい最近会った人を含めて失礼ながら半数以上のお名前を忘れてしまった。
 幼い頃の記憶がはっきりしているというのは、夢に出てくる風景にも関係している。よく夢に出てくるのは、高校卒業まで住んでいた東京・世田谷の街並みであり、その後移り住んだ西日本各地の風景が思い出されることは滅多にない。

 昨日も述べたが過去の期間についての「時間評価」というのは、時間の長さの感じ方ではなくて、体験したイベントの回想量のようなものである。「時間の長さを評価してください」と教示されれば、やむをえず、回想量を手がかりに評定することはできるが、少なくとも、その場で過ごしている時に感じる時間経過の長さとは全く別物であり、同じ「時間」という言葉を使って議論するのは混乱を招くようにも思われる。

次回に続く。